Scribble at 2023-11-15 13:58:55 Last modified: unmodified

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東京都内にあった劇作家・島村抱月(1871~1918年、島根県浜田市金城町出身)の墓が昨年末、ひっそりと姿を消した。いわゆる、親族の管理が困難になったことに伴う「墓じまい」だ。抱月の実家・佐々山家の 菩提ぼだい 寺でもある浄光寺(同市)は、10月に親族が墓参りに訪れたのを機に連絡を取り、「抱月の墓は文学碑の側面がある」と撤去された墓石を捜し始めた。見つかり次第、境内などに設置する考えだ。(佐藤祐理)

「近代演劇の父」島村抱月の墓石、「墓じまい」で姿消す…関係者が「文学碑の側面ある」と捜索

読売新聞の、冒頭に概要を述べて署名するというスタイルは好感が持てる。もちろん内容によっては記者が襲われたりするリスクがあるので、僕は記者の実名である必要はないと思うのだが、どのみちペンネームでもバレたらおしまいである。記者が記事の内容によって危害を加えられるような、野蛮で未熟な社会とならないようにすることが大切なのだろう。そういう意味も含めて、読者も報道機関を牽制したりサポートしていかなければ、どういう業界であっても簡単に零落したり衰退してしまう。

さて、記事の内容についてだが、たとえ有名人であってもこういうことはいずれ起きる。どれほど日本に金持ちの俳優がいても、こうしたことに私財を投じる人なんて少ない。そして、結局は記録や記憶を永久に保存したり維持しようというのは、儚い願望であろう。極端なことを言えば、国立国会図書館に収められている蔵書ですら、日本が仮にでもロシアに占領されたりしたら跡形もなく焼却されてデータも消去される可能性がある。というか、この国は公僕である国家公務員がそもそもデータを「てへぺろ」で抹消してしまうのだから、情報の長期的な保存なんて望むべくもないし、それどころかロシアの話は別としても、そういう望みには思想としての健全さがないと僕は思う。もちろん、だからといって刹那的に生きよと言っているわけではない。

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