Scribble at 2024-01-06 17:19:11 Last modified: 2024-01-06 17:29:05

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Displaying content as a graph: An exploration

この素晴らしい記事で議論されているように、知識とか情報あるいは「コンテンツ」と称しているものが HTML と呼ばれるルール(モデル理論では「公理」と呼ぶ)を充足する式(モデル理論では「文」と呼び、文、つまり個々のウェブ・ページの集合と対応規則や語彙を集めた一式を "〈L, R, T〉" などと表記して「モデル」と呼ぶ)でなくてはいけないなんて根拠はないはずなんだよね。これはもちろん学術論文というフォーマットにすら通じる話なのだけれど、なんで情報や知識が「ページ」とか「論文」とか「書物」なんていう単位やフォーマットでしか表現できないとか共有できないとか保存・継承・伝達できないなんて制約があるのか。これは、恐らく HCI が高度に発達してヒトの脳波を広範囲にやり取りできるようになれば劇的に要件が変わってしまう可能性があるし、そもそも知識とはなんであるかという理解そのものについても更新なり進展が求められるかもしれない。なぜなら、知識の主体である筈の僕ら自身の認知能力とか認知条件が変わるかもしれないからだ。すごく簡単な話で言えば、眼の仕組みを(サイボーグでなくても、遺伝子の編集などによって)紫外線が見えるようにすれば、写真とか絵画で表現される内容も変わる可能性があるし、そもそも「見える」という言葉の意味も変わるだろう。そして、それが変わってはいけない理由もなければ、変わらなくてもよいなんて理由もないのである。

こういうことを議論して、はじめて現代において科学哲学者を名乗る意味があるんだよね。サイボーグをサイボーグとして SF 話だけしてるような、いかにもナウい話をしてますという自意識だけで科学哲学やってるような連中には、本当のところサイボーグとか SF なんて何にも分かってないんだよな。

そして、僕は本物の科学哲学者であると共に、プロのデザイナーでもあるからして、こういう話題はこれからのウェブ・コンテンツを考えるためにも有益だと思う。なお、数学的には木構造もグラフの一種であるから、この議論は HTML のように単一の root をもつと仮定されているグラフという制約(たとえば全ての要素は一つの html 要素であるといったルールは数学的な制約であって、コンテンツの本質であるとは限らない。いわゆる「HTML (W3C) 原理主義者」と呼ばれる人々は、こういう点を数学的には厳密に理解していない生半可な形式主義者である)には、コンテンツの本質からいって大した根拠がないという話をしているわけだが、だからといって拡張していってもいいかどうかというと、そのままでは僕ら自身の認知能力が追いつかないという問題がある。

そして、ここからもう一つの大切な可能性が分かる。それは、僕ら自身が「コンテンツ」なるものを理解しているとは限らないということだ。

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