Scribble at 2026-06-10 21:02:07 Last modified: 2026-06-10 21:10:50
経営科学、あるいは経営情報システム工学とも言われたりするが、企業や組織・団体の意思決定に寄与する情報の定義、収集、分類、解析、それから最近では「見える化(visualization)」なども守備範囲になっている分野があって、もちろん生成 AI を利用することがトレンドになっている。だが、これまでの歴史を振り返ると、やはり目ぼしい成果を理論であろうと実証であろうと出せないままで終わるのだろう。
これまで、この分野も何度かのブームを巻き起こした。第一次ブームと言っていいのは、恐らくオペレーションズ・リサーチ(OR)が持て囃された頃(1970~1980年代)だろう。僕も、OR に興味があったときに、わざわざこの時代に出版された本を手に入れたものだった。でも、当時は使える計算資源もストレージも貧弱なものであり、企業の活動をサポートしたりリードできるような性能は(国家機関が利用するスケールのコンピュータですら)なかった。映画の『ウォーゲーム』に登場する当時の最先端の戦略解析コンピュータですら、たぶん皆さんがインストールしているスマートフォン用のチャッピーの足元にも及ばない性能である。また、この OR を実際に少しでも勉強すれば分かることだが、ありていに言えば数学を使った机上の空論にすぎないという印象がぬぐえない。そして致命的なのが、現実の経営や経済活動を解析したり、逆に理論を現実の経営に応用するための「翻訳者」が殆ど存在しなかったことである。いまでもそうだが、日本では「SE」などと呼ばれている営業に顧客の KPI なんて本当には理解できないし、かといって自社の開発チームがやっていることを正確に理解できているわけでもない。こういう未熟な翻訳者が間に入ることで、余計に事態は混乱するものだ。しかも、こいつらの中から「プロジェクト・マネージャ」などという中途半端さのプロが育つのであるから、システム・インテグレータという業種の愚かさや未熟さや深刻さは想像に余りあると言ってよい。
次にブームとなったのが「エキスパート・システム」だったわけだが、これは大規模なシステムを導入できる大企業だけの玩具だったと言える。どちらかと言えばデータの総量だけでフレーム問題を薙ぎ倒すという体育会系のソフトウェア・アーキテクチャーであり、とてもコンピュータ・サイエンスとして評価できるようなものではないと思う。ただ、現在の「世界モデル」にも似通った脳筋っぽいノリがあるので注意したい。僕はいまでも、フェイ・フェイ・リーがあんなものに本気でコミットしていることが、にわかに信じられない。
そして、これも話題としては頻繁に登場するものの、さほど熱心なフォロワーや実例が産業界にないのが、ゲーム理論だ。経済学者や経済評論家が通俗的な解説で持ち出すことが多い概念的なおもちゃの類なのだが、数学的にはフォン・ノイマンが手掛けただけあって精緻な理論やモデルがある。僕も、ハーバード・ギンタスの The Bounds of Reason というゲーム理論の啓発本みたいなテキストを手に入れるくらいは興味をもっていたけれど、これもあの懐かしき「複雑系」などと同じであり、数学的に精緻というだけの取り柄しかないという決定的な欠点や不備がある。このほど琴坂将広氏による『経営戦略の進化〈理論編〉』(東洋経済新報社、2026)という大部の本が出版されたが、この中でもゲーム理論が話題として注目されなくなった理由を、だいたい上のような理由で説明している。
このような分野が学術研究として未熟としか言いようがない決定的な理由は、恐らくこの分野のプロパーですら、数学の単なるユーザにすぎないという事実にあるのだろうと思う。要するに、自分たちの未熟な経営や経営学の知識に合致するような、きれいでエレガントな数学の式を当てはめているだけであるということだ。確かに数学の形式や抽象の力は、ザビーネ・ホッセンフェルダーが LOST in MATH で力説したように、論理的に筋の通ったタワゴトを幾らでも捻り出せてしまうというリスクもある。そして、それゆえに数学や論理学の議論に訴えるなら、そのリスクを正確に理解しておかなくてはいけないわけであり、僕の専攻している哲学でも似たような問題がある。哲学的に何の意味があるのか不明な議論を論理式を振り回して続ける人々がいたり、「オブジェクト指向の哲学」だの「圏論を哲学に応用する」などとマーケティングしか考えていないクルクルパーの物書き風情が哲学者を名乗っていたりする。