Scribble at 2021-08-26 00:16:40 Last modified: 2021-09-27 13:55:30

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ということで、先に述べたとおり幾つかの本はスルーして、次に読むべきビジネス書を手にとっている。いよいよ、スティーヴン・コヴィーの『7つの習慣』だ。初めて知ったのだが、著者は10年近く前に不慮の事故で亡くなったのか。ともあれ、今だに多くの読者を獲得しているビジネス書というか自己啓発本というか、若手の企業人にせっせと推薦されることの多い本なので、これも丁寧に通読している。

んがしかし。ところどころ翻訳に問題がある兆候は伺えるので用心しないといけない。

まず、"effectiveness" には「有効性」という言い方があるにも関わらず、それを本書では「効果性」という奇妙な表現で訳している。もし "effective" に「無効」や「逆効果」という否定的な意味も含めた中立的な意味合いがあるならともかく、"The Seven Habits are habits of effectiveness" だと言明されているように、これは desired result or establishment、つまり成就したステータスとして何か良いことへ至っているという意味合いを含む言葉だ。よって、とりわけスティーヴンが有効・無効の区別なしに、いわば自然の摂理によって〈結果が起きること〉という、価値観を除外した意味で使っているのでない以上は、既に日本語として広く使われている言葉で訳すのが妥当だろう。

そして、スティーヴンが原文で "proactive" vs. "reactive" と対比させている言い方が、翻訳では「主体的」と「反応的」という対比になっている。これは一見すると熟語としての反対語ではないため、読み進めてきて意味が理解できた読者からすれば、なんだかピンと来ない表現だ。ここで注意しておきたいのは、スティーヴンは内容からすると "proactive" を何か起きたことに対するただの反応として振る舞ったり考えるのではないという意味で使っている。本書はビジネス書の類として扱われるため、「プロアクティブ」というビジネス用語としての意味(先んじて何かをやっておくこと)に取る人がいるかもしれないが、それは止めたほうがよい。ここでは、何らかの〈既に起きたり生じた出来事とか事態〉について、我々がとる態度や行動を二つに対比するために使われているのだ。したがって、意味合いとして「主体的」と訳しているのは正しいのだが、「反応的」という言葉に熟語としての対比ができていないこと、そして「主体的」という言葉には色々な脈絡で余計なニュアンスがあることという二つの点から、他の言葉を採用したほうが良いと思う。特に、「主体的」という言葉には60歳代以上の人々にとっては左翼用語や組合用語のニュアンスがあるし、逆に若い世代では自己啓発系の脅迫的なニュアンスを感じ取る人もいるだろう。

次に、僕が読んでいるのは2011年に出た第66刷(10年前の時点で既に66刷!)なのだが、68ページに「背中は買えても頭の中を買うことはできない」という一文がある。「背中」? なんのことだろう。英語にこんな慣用句があったという記憶はないので、とある手段で原文を参照したところ、原文では "You can buy his back, but you can't buy his brain" となっていた。これでニュアンスはなんとなく理解できた。そして、「背中」とか「頭の中」という翻訳が著者の意図を的確に伝えていないことも分かった。

この文章は、脈絡としてお金で買えるものと買えないものがあるという話をしていて、この文の前には "You can buy a person's hand, but you can't buy his heart"(お金で労働力は買えても、お金で心は買えない)という表現が出てくるので、同じ趣旨を維持して著者の意図を表さないといけない。よって、ここでの "back" というのは、〈背中に〉負う荷物、つまり労働を表していると解しておくのが妥当だろう。したがって、僕なら以下のように訳す。

現行訳「背中は買えても頭の中を買うことはできない」

河本訳「金で荷物を人に背負わせることはできても、金で責任感を人に負わせることはできない」

それから、もう一つだけ紹介しておくと、118ページの「自分を咬んだ毒蛇を追うことによって、毒が全身を駆け巡り心臓に至るのだ」という表現にも違和感がある。ここは原文だと "Chasing after the poisonous snake that bites us will only drive the poison through our entire system" である。もちろん現在の訳文でも、毒を処置するよりも毒蛇を追いかけてしまう自分の判断が破滅的な結果を招くという意味は伝わるが、原文にある "only" という言葉がもつ強勢のニュアンスが伝わらない。翻訳は別の原文を使っているのかもしれないが、もし同じ原文から訳したのであれば、心臓うんぬんこそ余計だと思う。そして「自分を咬んだ毒蛇」という表現は、「自らを咬んだ毒蛇」と言っているように見える。原文では "that bite us" と言っており、もちろんこれを馬鹿正直に「我々を咬んだ」などと訳す必要はないが、もう少し丁寧に訳した方がいいように思う。僕としては、「毒蛇に咬まれたとき、その毒蛇を追いかけていては、じきに毒が全身に回ってしまうだろう」くらいにしておき、他の選択肢があったのに、毒蛇を追いかけるという選択だけが(only)毒を全身に回らせてしまう結果を引き起こすというニュアンスを含めておきたい。

・・・とまぁ、些細な点と言えば確かにそうかもしれないが、場合によっては論旨を正確に理解できない人がいるかもしれない。これだけ増刷し続けているなら訂正するチャンスもある筈だから、期待したい。どうやら訳者は特に翻訳の専門的な教育や訓練を受けたわけでもない人物のようだが、僕のようなレベルの翻訳の能力(英語と日本語の両方)ですらすぐに気づく問題がある。よって、本書でも十分に自己欺瞞の愚かさについて論じられているように、自分こそが『7つの習慣』に関する権威だという自意識プレイはやめて、恐らく今後も本書は多くの人々に読まれていくであろうから、真摯に翻訳を少しずつでも改善してゆくべきではなかろうか。

ただ、その「今後」がいつまでなのかは分からない。正直なところ、本書と同じような主旨はアーヴィンジャー・インスティチュートから出ている「箱」シリーズの本にも認められるし(こちらも自己欺瞞や自意識プレイの愚かさについて書かれている)、僕が思うところでは自己啓発ブームが終息した時点でどうなるかは分からない。実際、この手の本どころか経営学の古典と呼ばれているような『ブルーオーシャン戦略』やドラッカーの〈まともな本〉ですら、いまではさほど読まれていないのが実情で、僕がビジネス書を丁寧に読んでみようと思ったのは、そういう事情が理由でもあった。そして、それは既に1ヶ月近くかけて毎日のようにビジネス書を読んでゆくと、新しく出てきては廃れてゆくという早い展開の原因が分からなくもない。社会科学としての経営学というのは、実際のところ1980年代に成立したと言ってもいいくらい歴史の浅い学科であるがゆえに、かなり雑な理屈でも先駆的な業績として目立ったというだけのことなのだ。実際、それらの先駆的な業績の多くは、経済学派であろうと社会心理学派であろうと社会学派であろうと、あるいはアメリカにかなり多い〈隠れ宗教系〉の経営学や自己啓発論であろうと、議論の基礎にしている考え方はかなり分かりやすいがゆえに、さっさと教科書の一部に取り込まれて歴史の1ページになってしまいやすい。

そしてスティーヴンの本も、確かに〈良い本〉ではあるかもしれないが、やはり冷静に見ると、(「同じような」と評した)アーヴィンジャー・インスティチュートの本も含めて、或る共通の発想元が理由なり限界として見えてくる。もちろん単純に良い悪いの話をしたいわけではないが、どちらもモルモン教(末日聖徒イエス・キリスト教会)という共通の、スティーヴンの言い方を(皮肉なことに科学哲学者が)借りると「パラダイム」という共通の枠組みが見えてくるのである。この手の本は、その主張している内容が言葉として素晴らしくても、一般の読者に見切られたら終わりである。日本でも僧侶による人生訓やら自己啓発本が盛んに出版されているが、殆どビジネス書としては扱われていない。本書も、ビジネス書の棚に置かれてはいても〈その手の本〉だと多くの人に思われたら、もう手にとってはもらえなくなる。なんだかんだ言っても書物は商品なのであるから、どれほど崇高で素晴らしいことを書いていても、たいていの買い手は印象でしか判断しない。

最後に、まだ読了もしていないうちに『7つの習慣』についてあれこれと書いているが、僕はアーヴィンジャーの著作物も含めて、これらがモルモン教を下敷きにしていようと何であろうと、語られている内容そのものには学ぶべき点が多いと思っていて、別にこれらを読むなと言いたいわけでもないし、相当な注意力で警戒しないと特定の宗派のクリスチャンとして洗脳されるなどと言いたいわけでもない。それどころか、はっきり言って日本人の3割くらいは、この本を読んでモルモン教の信者になった方がマシな人間になるだろうと言いたいくらいだ(それでもケント・ギルバートのような人物に育つ者もいるわけだが)。

特に自己啓発本を熱心に読み飛ばしている人の中には「自己責任」という考え方を誤解している人が多いので、本書を丁寧に読んでみるようお勧めしたい。例えば、自己責任を唱える人々の中でもリバタリアンという連中は、ありとあらゆる福祉制度や年金制度は経済的な効率性の障害であり、社会的な無駄だと断言する。金持ちだけが豊かに暮らし、権力を手にした者だけが生き残れたらそれでよく、(なぜかリバタリアンは自分たちが金持ちで高学歴だという思い込みがあるからか)衣食住やエッセンシャル・ワーカーの仕事は全てロボットや AI がやればいいと言ったりする。そうした社会になることを拒む全ての国家財政的な歪みや規制は徹底的に排除することが正しく、効率的な政策を見出すためにはアフリカや南米といった後進国を使って実験すればよい。こうして、マイクル・フリードマンを初めとする人々はチリなどの国々で出鱈目な経済政策を為政者に吹き込み、国民に大混乱を引き起こした。それでも、それはチリの民衆の「自己責任」による体制が実行したことなので、彼らには何の責任もないというわけである。日本でも、生活保護や公的医療制度や年金制度を否定しながら、渋谷や六本木あたりで国家官僚と一緒にアイドルや若手女優と乱交パーティを繰り返しては NewsPicks で管を巻いている、IT 企業の経営者とか色々な企業の外部取締役として暇を潰す人間のクズどもがリバタリアンだ。社会的な弱者とか、自民党政権に文句を言っている人々は、自ら進んで弱者や敗者となったのである。身体に障害をもって生まれた人々は、障害をもって生き続けることを自ら選択したのだから、不自由な暮らしを続けることを受け入れなくてはいけない・・・これが日本で盛んに唱えられている「自己責任」だ。もちろん〈本来のリバタリアニズム〉と比べて(そんなものがまともな思想としてあれば、の話だがね)社会思想としては暴論に描いており、藁人形に仕立て上げてしまっている自覚はあるが、藁人形に釘を刺して本体が死んでくれるなら問題はない。なぜなら、この程度の暴論は、放っておいても何年かすれば再び思いつくバカがいくらでもいるからである。個々の多様な思想を書物や論文に記録して留めるというていどの「多様性」は維持してもいいが、いちいち具体的に公に唱導したり支持することなど許容していいはずがない。

『7つの習慣』で力説されている「自己責任の原則」が、もしそういう弱肉強食のスローガンに過ぎないのであれば、そしてもしあなたが『7つの習慣』を100ページくらい読み進めて、いまの自分の境遇が自らすすんで選んだことだと納得するなら、もうそれ以上は読む必要がないだろう。金持ちになりたいなら、本など読まずにさっさとバイト先を見つけるべきだ。モテたいなら、午後の予約をとってエステに通うか、美容外科を訪れるか、あるいはキャバクラへ行けばいい。学歴にコンプレックスがあるなら、いまからでも社会人入学できる大学院を目指すしかあるまいし、大企業の名刺を持ちたいなら何らかのコネを作る算段を探すことだ。しかし、スティーヴンは『7つの習慣』で、そんなことを人に勧めているのではない。ここで展開されているのは、自分に起きている問題は自分でしか解決できないし、自分自身にしか解決できたかどうかを判断する基準はないという、単純で当然だが貫徹するのが難しい自覚のことである。したがって、困窮している状況を打開するために、生活保護を申請して生活を安定させるチャンスとして利用することも一つの〈自分の〉選択であり、何ら自己責任という考えに反するものでもない。逆に、「自己責任」という言葉を Twitter などで安易にタイプしてる人間に限って、ただの生まれだけで莫大な財産や地位を得た大学教員や政治家とか、伝手やラッキーだけで事業を続ける〈札束を手にしたパソコン坊や〉とか、あるいは家事の合間に「愛国者」ごっこや「経済評論家」ごっこをしていたりする鬱屈したヤンママである。こんな連中に「自己」や「責任」という言葉を使って他人をとやかく言う資格はない。こういう人々に必要なのは発言する機会ではなく、カウンセリングだ。まさに『7つの習慣』で冒頭に書かれている「インサイド・アウト」の発想へ切り替えるよう、強く求めたい。

著者に代わって繰り返すが、「自己責任」は他人に要求するものではない。よって、僕もリバタリアンを初めとする上記のような愚かな人々に再考を促そうとは思わないが、そのような態度や思考が愚かだという僕の判断は明解に述べ伝えたい。

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