Scribble at 2026-04-02 18:04:49 Last modified: 2026-04-03 09:32:42
同じ研究会が編集して出している本ということで、前作の『人文死生学宣言: 私の死の謎』(2017)と同じく、PHILSCI.INFO で「死」しかも自分自身の死についてとりあげている都合から、さきほどジュンク堂で見かけて手に取ってみた・・・のだが、はっきり言って本作は自分自身の死を語るというスタンスについて後退している。僕にとっては殆ど読む意味がない。
理由は明快で、自分自身の死についてなーんにも書いてないからだ。せいぜい、「自分自身が死ぬということについて考えている哲学者や社会学者の僕って、あたしって」みたいな、へなちょこ自意識文章ばかりだ。これでは「文系」という言葉にしばしば乗っかっている侮蔑あるいは自虐的なニュアンスしか感想が見当たらぬ。
とにかく、こうして内容が伴わない低レベルな文章ばかりで、日本の出版というのはセンセーショナルなコピーを帯に印刷するようなマーケティングばかり熱心だ。いやはや、これではガーナやタイやパラグアイの哲学研究者に国際的な業績においてこの国が凌駕されるのも時間の問題だな。
本当の問いや動機に無関心あるいは無頓着な人々はどうでもいい。学問の世界において大切なのは、「無能は無視すること」だ。単純に分野が違うとか奇抜なアプローチをとっているという理由で意味の分からないことや難しいことをやっている人から面白い成果が出てくる可能性はあるが、無能な人間から歴史を動かすような成果が出てくることは絶対にない。それは、同じ時代に学問に携わっている人間から見て、そもそも判断しうるようなことをやっているのだから、当たり前だ。したがって、本書のようにアマチュアの(単なる自称ではなく、少なくとも最高学府まで進んだ経歴をもつ)哲学者から見て馬鹿げたことを書いているだけだと断定されるようなものは、学術としても無視して構わないようなことでしかないのである。
Four Thousand Weeks という本が売れたとか、あるいは大谷翔平選手の人生のマスター・プランと言うべきダイアグラムが注目されたことからも言えると思うが、このようなスタンスで人生を眺める人々の基本的なアイデアというのは、簡単に言えば TMT (terror management theory) に近いものだと思う。しばしば、TMT はセネカのようなストア派の思想家が唱えた人生観とは逆のものだと理解されていて、それらの是非については議論がある。そこで、少し立ち止まって考えてみよう。
まず、両社に共通しているのは、人の人生は限られているという事実を認めていることだ。つまり、人は必ず死ぬのであり、死ねばすべてが主観的に消失し終わる。これを否定するような「天国」だの「浄土」だの「異世界転生」だの「並行宇宙」だのという宗教者やラノベおたくや宇宙論研究者の、妄想や願望や数学的に可能というだけのタワゴトは受け入れられない。
そして、この限られた人生について、善く生きれば十分に長いと教えているのが、セネカの『人生の短さについて』という著作である。僕も高校時代に初めて一読して、なるほどとは思ったことがある。しかし、いまはそう思っていない。それは、もちろん僕がセネカとは違う考え方の者、なかんずく哲学者だからだ。そもそも、「善く生きる」という意味を効率や効用という意味だと理解しても、それだけで自分自身が自らの人生を長いとか短いと判断する十分な理由になるだろうか。
まぁ、その現実の長さが確定するのは、主観的には死んだときなので、もう死んだ人間には主観的に判断のしようがない。そこで、それを客観的に誰かが十分に長いと判断できる理由になるだろうかと考えてみてもいいのだろう。もしそのような基準がどこかにあり、たとえば1時間に1単位のタスクを達成することが「十分に長い」人生を過ごしたと言えるような成果をもたらすと仮定してみよう。では、小児がんで8歳までしか生きられなかったが、少なくとも「晩年」の1年間は何かの天才として基準を超えるようなタスクを成就したとして、この子が「十分に長い」人生を送ったと言うなら、それはせいぜいお通夜で口にするような社交辞令の類であろう。亡くなったのは事実であるから、そうと思うしかないと感じる親もいるであろうが、大半の親はそんなことを言われても納得はできまい。人の親というものは、哲学者や思想家であるよりも前に、人の親だからだ。
僕が哲学者として動かぬ真理だと思うのは、人は死ぬということだ。人生の終わる間際、つまり期限切れだとか間近に「終わり」が迫っている人に限って焦ると思われているが(セネカが耳にした「人生は短い」と不平を言う人々のように)、実際には若い人にも十分な時間などない。みなさんが高校生だとして、仮に80歳まで生きられることがなぜか分かっているとしても、残りはせいぜい65年から62年ていどだ。僕らのように還暦が近い人間の中には、これから何か新しく始めたり学んでも仕方がないと消極的になる人も多く、その理由の大半は残り時間がないということだ。つまり、何かを始めて「ものになる」までに10年くらいかかるとすれば、それから自分や家族や社会に役立てるとしても、そんなに長くは続けられないという想像をするのだろう。しかし、高校生が何かを始めて自分や家族や社会に役立てたとしてみても、せいぜい50年くらいだ。人が、しかも殆どの人は特別な才能があるわけでもないし、業績を打ち立てられるわけでもないので、何事かを成し遂げられるとしても、それは10年だろうと50年だろうと些細なことである。時間が長ければ長いほど尊く凄いことをやったかのように錯覚するのは、まさしく凡人の大多数がそのようにしてしか他人の評価を受けていない、労働集約型の働き方しかしていないからだ。
したがって、若いころからやろうと年をとってから始めようと、人のやることなんて大したことはできない。しかるに、セネカが言うように(どういう意味でかはともかく)さらに「善く生きる」ことによって、50年やっている者と比べて何ら劣らない成果を晩年の10年に達成できる可能性はあるのだろう。でも、だからといって、それが「十分」であるなどと言う理由にはならない。僕が言いたいのは、人は死ぬということが真理であるだけでなく、人生に十分などということはないのもまた真理だということだ。よく言葉の彩として「人の可能性は無限」などと言うが、逆に理解すれば、それは何をやっても十分あるいは完全ということはないという意味にもなる。もし、このような言葉の彩を文字通り正しいと受け入れるのであれば、人の人生は限られており、そして「善く生きる」ことにも無限の可能性や向上の余地があるというなら、もちろんそこから論理的に出てくるのは、人の人生に十分などということはないという結論である。
実際、僕自身が自分の死について考えたり、自分自身が死ぬことを恐れるとはどういうことかを分析しているのは(もちろんだが、怖いに決まっている)、本書のように他人事として言えばこのような事情もあると思う。僕は(みなさん当サイトの文章でお分かりだとは思うが)ナルシストであり、有能な企業人だとか有能な哲学者であるという事実やイケメンであるといった事実はともかくとして、それ以外のことについても色々と自分が死んでできなくなることがあるのは惜しいと思っている。当然だが、寿命が1万年くらいあったら、これから勉強しなおしてハーヴァード大学の教授になるのも造作ないていどに有能な人間だと思っている(たぶん、いまの僕に不足しているのは英語と、大学教授として馬鹿な学生の相手をする忍耐力くらいだろう)。でも、そんなことは絶対に無理である。であれば、次に何を考えてどうするべきなのか。セネカが言うように、人生は限られていると文句を言っても無意味だ。やれること、やりたいことをやって死ぬのだ。