Scribble at 2024-05-03 09:45:54 Last modified: 2024-05-03 10:17:56

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洋書のスキャンも対応可能でございます。

英語で書かれた書籍はスキャンできますか?

先日、読了した本の中から段ボール1個分を再びノースブックセンターへ売却した。この買い取り業者さんは、前にも書いたように、他の業者と比較して査定が適正だと思う。おおよそ学術的にも希少性から言っても価値があろうと思える本は、どれほど古かったり、多少の専門性はあっても高く買い取ってくれている。ただ、売り払ってしまうと手放すわけだから、再び読もうと思っても購入し直すか図書館で探すしかなくなる。それを思うと、逆にこちらからお金を払ってでもスキャンしてもらう方がいいという考えもあろう。

特に、僕が買取業者に売り払っているのはお金が欲しいからではなく(まぁそれなりに貧乏だけど)、どちらかといえば居住空間を確保するためである。正直、僕も連れ合いも本好きで、積極的に処分もしてこなかったので、どんどん書籍が貯まっていく。既にダイニング・キッチンと浴室の前を除けば本棚やら直に積み重ねている本で居室が埋まっていて、寝室ですら 1/3 は本を収納したボックスで埋まっている。童話でお菓子の家というのがあるけれど、それに匹敵するような本で壁ができている家かと思うような自宅である。

もちろん、これは僕の求める自宅の姿ではない。よって、蔵書を読み進めて買い取り業者へと送っているのだが、いくらなんでも1日に読める分量なんて限られている。それに、読了したからといって無条件に処分したいわけでもなければ処分すべきだとも思わない。とは言っても、いま述べたようにどんどん本は増えていくので、この状況を解決するために、僕は今年になって二つのテーマを検討することにした。

一つは、上記でリンクしているページでも紹介しているように、未読か読了したかの区別なくスキャンしてもらい、ひとまず電子書籍にしてしまうことだ。もちろんだが、物体としての「書籍」というものに触れてページをめくるということに利点がある書籍もあるし、そもそも拡大できようとスクリーンの大きさに制約された中で眺めないといけないということ自体がよくない、つまり一覧性を求めている場合もある(僕は、電子書籍の決定的な欠点はこれだと思う。文字や図版を拡大できるのは良いが、それに比例して画面サイズつまりデバイスが巨大になるわけではないので、常に紙面の一部しか見えていないという制約がある)。

では、どういう書籍をひとまずスキャンしておくのかというと、やはり僕の場合は洋書である。なんだかんだ言っても、大学院を出ていたって洋書の方が読む時間は多くかかる。なので、消費していく効率は洋書の方が低い。なのに、蔵書の半分くらいは洋書なので、これを先に電子化しておけば相当なスペースを空けられる。そして、僕が所持している科学哲学や分析哲学の洋書は、おそらくプロパーの多くは重複して所有しているだろうし、図書館にもあろう。よって、僕が死んだ後は裕福でもない学生さんに残したいという気分があるのだけれど、大学図書館や公立の図書館に寄贈しても受け取ってもらえるとは思えないし、高知大学の一件もあるように、昨今は書籍に何の思い入れもなく価値判断すらできない人物が司書になったり図書館の管理職に就いたりするため、はっきり言えば信用するのが難しくなってきている。「TSUTAYA図書館」のような素人集団に至っては、まさに溝へ捨てるようなものだ。すると、こんなことを公言していいかどうか分からないが、電子化しておいて、そのデータを Internet Archive などへアップロードした方がいいのではないかと思う。もちろん洋書を買うお金が少ない学生というのは、何も日本だけに限らないし、日本でも奨学金を生活費にしているほど貧しい学生も多いのは確かだが、しょせんバイトすれば数万円の洋書を毎月のように買えるていどの貧しさであるから、もっと圧倒的に貧しい国の学生にも利用してもらえるアーカイブ・サイトへ寄付するほうが良いと思っている。それに、何度も言ってるように、僕は哲学者なので、日本とかそういう観念にしがみつく必要なんて何も感じていない。

そして、僕が検討しているもう一つのポイントは、もう幾つかのテーマについて読書したり積極的に情報を集めるのは諦めるということだ。人が一生にやれることなんて限られているのだから、やはり何某かの成果として少しは納得できるだけのことをやろうと思えば、どうしても取捨選択が必要だ。いくら哲学者だからといって、他人よりも記憶する量が多いわけでもないし、とりわけ僕は記憶力が弱いという自覚があるので、同じことを何度も復習しなくては定着しない。この50代後半になってからでも新しく学ぶことがあるし、これまでに学んだことを復習する必要もあるから、コミットできる分野とかテーマを絞らないと、結局はどれも中途半端になってしまう。もちろん、中途半端でも別にいいと言えばいいのだが(ゆえに他人がそうなっていることを非難するつもりはない)、僕は僕自身については納得できないため、そろそろ「僕がコミットしないくてもいいだろう」というテーマを決めて、それに関連する書籍は読了していようといまいと処分することにした。

既に幾つかのテーマは決めてある。たとえば、海ごみ(marine debris)やマイクロ・プラスチックといった環境汚染の話題である。重要なテーマであることは否定しないし、もちろん僕の他に誰かがコミットしていることを称賛したりサポートするチャンスもあれば良いとは思うが、僕自身が科学哲学や数学を脇に置いてコミットするべきテーマであるとは思えない。なので、ありていに言うが他人に任せる。誰かに期待して、信用する。僕自身が何か学べば、環境の哲学といったテーマでプロパーに匹敵する成果を残す自信はあるが、それは誰か他の人でもやれると思う。

他には、NHK で『新シルクロード』が放映されていた頃に数多くの書籍を集めて読んでいた、シルクロードや玄奘三蔵関連の著作も処分する。もともとは一つの目的を定めて長い旅に挑んだり、帰国してからでも仏典の翻訳に集中した人物として玄奘三蔵に興味をもち(同じような理由で、鹿持雅澄にも関心を持ったのである。こういうことに国学のようなイデオロギーの正否は必ずしも障害とはならない)、彼が旅した経路であるシルクロードの歴史などにも興味をもったのだが、これもいったんは全ての手持ちの書籍を処分したい。

現在のインドはヒンズー教に圧倒されてしまい、やはり宗教活動なり教団として政治や風習といったものには打ち勝てなかったということが明白になっている。それどころか、かつては仏教の大国であったはずが、いまではくだらない理由で幼女を大人が取り囲んでレイプするといったクズ国家になりさがり、西側陣営のふりをしているが、実際には長らくイギリスに属国扱いされてきた怨念から、核兵器まで保有して手前勝手な外交を繰り広げている、或る意味ではロシアよりも予測不能で危険な国と言って良い。仏教が興った土地であろうと、時間が経てばそんなことになるのだ。西洋哲学を学んでいると宗教の影響の大きさや強さを色々なところで感じさせられるわけだが、しかしそれは果たして「宗教の(あるいは特定の宗派や宗旨の)」力なのかというと、どうもそういうことではないと分かるていどには西洋史の素養を身に着けたつもりである。ともあれ、そういうわけで玄奘三蔵個人については特に詳しく多くを知る必要を感じなくなったし、シルクロードに関連する地域の歴史や地誌についても、観光客的な興味はあるけれど、歴史学とか思想史あるいは宗教史という観点からの興味は、もうない。

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