Scribble at 2024-12-05 13:24:57 Last modified: 2024-12-05 13:35:01

文化人類学というのは非常に興味深いアプローチの学問で、もちろん最近では「人新世」だの「サピエンス」だのと通俗的な書籍でも文化人類学の成果を知る機会は増えていることと思う。しかし、少なくとも国内では学問として低調であることは確かであり、はっきり言えば海外へフィールドワークに出てゆく資金と時間と決意をもつ若い人が少ないという仕方のない事情もあって、こう言ってはなんだが中沢新一氏を始めとする机上のポストモダンなお喋りで小銭を稼ぐような毒にも薬にもならない典型的な「都内の出版インテリ」と呼ぶべき学者しか出てこないというのが現状だ。

そして、日本にはもう一つの特殊な事情がある。それは、多くの人が文化人類学と民俗学との区別がつけられないという事実である。あるいは、少し両者を齧った程度の人でも、かなり多くの人の印象として、「文化人類学=左翼、民俗学=右翼」という短絡的な区別をしてしまっているようなところがある。もちろん、こういう区別は間違いであるが、やはり日本の出版事情だと体制や権力に批判的な人々は海外の成果をもとに「出羽守」になりたがる傾向があるため、どうしても文化人類学を体制批判の左翼的な動機で持ち出す事が多い。そして、民俗学の方は日本の固有の文化についての学問であり、フォークロアという学問など存在しないにもかかわらず、日本の一部の保守的な出版事業者によって、あたかも学問であるかのような扱いがされてきた。つまり、どちらも悪い意味での「マーケティング」によって偏見を人々に刷り込んできたようなところがある。

PHILSCI.INFO で書いたとおり、僕は科学哲学のテキストを書くにあたって、やはり文化あるいは人の営みとしての学問なり技術の醸成・発達という捉え方に戻って哲学や科学を考えてもらいたいと思っているので、文化人類学や民俗学の知見は活用したい。もちろんだが、科学哲学を文化人類学で「基礎づける」とか「説明する」とか「正当化する」なんて馬鹿げたことは考えていない。このところ、思想として閉塞した状況を打開しようと、こういう安易な概念的パフォーマンスを演じる大学教員や物書きが増えており、たとえばデイヴィッド・グレイバーの『万物の黎明: 人類史を根本からくつがえす』といった著作を、あいかわらず「知の巨人」だの「人類史を根底から覆す」だのと、出版社のセールス・コピーを真に受けて論じようとする人々がたくさん出てくる。もちろん、文化人類学、なかんずくポストコロニアリズムの成果を僕も科学哲学の理解について取り入れたいとは思っているけれど、だからといって現代の科学哲学をイスラム哲学で基礎づけたり、underdetermination に関わる論争の答えは『コーラン』に書いてあるなどと言うつもりはない。そういう思想的に雑な倒錯や短絡を繰り返していても、愚劣な編集者や凡庸な学者の小遣い稼ぎにはいいネタかもしれないが、そんなお喋りに真の知的インパクトなどないのである。

それは、知的インパクトがあると出版社が繰り返してプロモートしようとする中沢新一氏(いちおう、「宗教人類学」という文化人類学の研究者ではあるらしい)の本がどれだけ売れていようと、結局は日本にまともなレベルの文化人類学者や民俗学者なんて殆ど育っていないという事実でも分かる(たいていは海外の大学にいる)し、研究分野の実情が通俗本でしか分からず、古典的な著作の刊行もいまだに難しい(たいていは高額な書籍でしか発売されていない)という事実でも分かる。それから、高校までの学習内容にも殆ど反映されていないことも一つの証拠になると思う。文化人類学の成果を利用した学習内容なんて、実際には高校で教わる「地理」つまり人文地理学に埋もれてしまっているのが実情であろう。

  1. もっと新しいノート <<
  2. >> もっと古いノート

冒頭に戻る