Scribble at 2026-05-01 10:16:31 Last modified: 2026-05-05 09:33:38
1964年に、心理学者の Mihaly Csikszentmihalyi と Jacob Getzels は人が創造的なプロセスにどうやってアプローチするかを調べようとして、美術学校の学生31人を対象に実験を行ったという。学生たちは用意された27個のアイテムから好きなものを選んで配置し、1時間で静物画 (still life) のスケッチを完成させるよう指示された。学生たちの様子や完成した提出物を観察した結果、学生たちのアプローチは大別して二つのグループに分かれた。或る学生たちは、(1) 与えられたタスクを「解決するべき問題(task as a problem to solve)」と理解してスケッチを完成させたのに対して、他の学生たちは、(2) 与えられたタスクを「何を解決するべきなのかを見出すための、視覚的に与えられた問題(finding and formulating a visual problem)」と理解してスケッチを完成させた。
美術の批評家による評価を行うと、(2) のアプローチをとった学生の方が、(1) のアプローチをとった学生よりも独創的で美的に魅力的な作品を生み出していることがわかったという。そして更に、5年後の追跡調査で彼らのキャリアを評価したところ、学生時代に (2) のアプローチをとっていた人々の方がはるかにアートの分野で成功を収めていたという。それとは対照的に、(1) のアプローチをとった11人の学生のうち、大多数の8人はデザインやアートにかかわる仕事や生き方を完全にあきらめていたという結果になったらしい。こうして、上の記事では、真のクリエーティビティや発明というのは、あらかじめ明確に定義されて答えの許容範囲が分かっているような問題を解くことにあるのではなく、解決するべきことが何なのかすら分からない不確実な状態で、そもそもそこにどういう問題があるのかを見つけ出すことから始まるということを示しているという。そして、これは生成 AI の時代においても通用する原則であり、既存のデータ・セットの中から「いい感じ」に意味論的な距離が最適なだけのパラメータで算出できるテンソルの値というお決まりの解答の枠組みだけでものを考えていては、真にクリエーティブな仕事や生き方には程遠いというのが、この記事の主旨だ。
事実、生成 AI のユーザとして効果的な運用の指針だと言われるのが、単純で機械的な作業は生成 AI にどんどん委ねてよいが、そもそも何をさせるべきなのかを考えて決めるのは人であり、それを正しく決めて適正な指示を生成 AI に与えるために人の知性は必要であり続けるという意見が支配的だ。そもそも生成 AI は意図や動機や不安といった感情や心理をもたないし、それを動作原理において組み込む余地すらないので(AI の応答に意志や感情があると「思っている」のは、まさに人が相手であろうとそこに意志や感情があると「思っている」からであって、実は相手の側の問題ではないのだ)、生成 AI に何かを命じようと、あるいは生成 AI の成果から何かを受け取ろうと、すべては我々の問題なのである。
上の記事とは関係ないが、ことのついでにクリエーティブについて少し書いておこう。
まず、大作が名作かというと、そうでもない。書籍でも大著が名著や古典であるかと言えば、そういうわけでもないのと同じだ。アマゾンなどでも調べればすぐに分かると思うが、海外では膨大な分量の参考文献を並べた500ページ以上のペーパーバックが毎月のように発売されている。小説ならわからなくもないが、特に歴史的な出来事なり事件(『ツイン・ピークス』が日本でも話題になったからご存じの方は多いと思うが、アメリカ人って本当に murder movie とか true crime が好きだよね)を扱った本は人気があるらしい。だが、その大半が初版も完売せずに市場から消えていく。なので、アマゾンでは不良在庫になったペーパーバック(ときとしてハードカバーですら)投げ売りされていることが多く、素性のよく分からない自称コンサルが書いたビジネス書だとか、無名の人物を細かく調べ上げただけの「力作」といった、学術的には殆ど価値のない本を安く手に入れることもある。僕は、こういうクリエーティブでもなければ学術的な価値もないような本であろうと、その箱庭趣味的というか偏執症とすら言える執拗な興味には一定の面白さがあると思っていて、まさか哲学者として何か学ぶことがあるとは思っていないものの、一種の小説や自叙伝、あるいは英語を勉強する教材だと思えばいいというくらいのつもりで読んでいることがある。でも、ページ数が多いこととクリエーティブとは何の関係もないのは確かだ。
それから、芸大などで作品を評価する場合でも、技巧に走って写真のような絵を描く人がクリエーティブかというと逆であることが多い。X などでは「超絶技巧」などと称して錯視を利用した緻密な絵を持て囃すことがあるけれど、そういう絵を描いているのは、もちろんたいてい画家やイラストレータとしては無名で無能な人々である。ああしたものは、実は専門学校で筆の扱い方の基礎さえ勉強すれば誰でも描けるのだ。
こういう凡人の誤解や無知無教養のゆえからか、クリエーティブのためのアイデアや考察において、最近の流行語でやたらと「解像度」という言葉を振り回す人がいるが、その実態は、自分が興味をもっているというだけの些末な話を過大評価する、二流のオタクが陥りがちな視野狭窄に過ぎない。これもまた、クリエーティブとは関係のない話である。