Scribble at 2020-08-19 16:14:01 Last modified: 2020-08-24 11:27:44
巻末の解説で息子さんが研究の要旨や経緯を丁寧に書かれている。さきほど帰宅する途中に本町の紀伊國屋書店で見かけて買ったものだが、そういや最近はこういう基本的な文献を、特に考古学や歴史学では丁寧に読んでないなと反省した。
考古学ファンと言われている人々というものは、昔も今も、とにかく「邪馬台国はどこにあったのか」という、僕に言わせればくだらない話を延々と続けている。小学生の頃から、僕はこうした人々を「好事家」と罵っていたわけで、その理由は、近畿か北九州か他の地域かなどという話にばかり固執して、その当時の人々がどういう暮らしをしていたのかという基本的な論点を、こういう資料を読み解いて精緻に調べたり議論しようとしないのは、歴史に対する根本的な興味の欠落としか思えなかったからだ。
こうした連中がせっせと新聞記事をスクラップしたり現地説明会へ集まったりするのは、そこで金銀財宝や「最古の何々」とかが出土するからでしかない。つまり、こういう人々は押しなべて珍しいものを求めているのであって、実際のところ昔の人々の暮らしや歴史なんてものに興味はないのだ。それゆえ『歴史読本』のような《消化に良い読み物》はせっせと購読して眺めるが、発掘調査報告書のようなものを読むために考古学の勉強をしたり、あるいは古文書を読むために読解の訓練をするなんてことはまるでやろうとしないわけである。こういうフリーライダーがいくら増えても、文化財行政のサポートには全く寄与しないし、優秀な学者を育てる素地にも実はならないと思う。
そして、僕がこういう人々が頻繁に口にすることに腹を立てるのは、素人だからわからないとか、アマチュアだからこのくらいの勉強でいいなどという、学術とは何の関係もない理由で自分たち自身を貶めるようなことを平気で言うからだ。そういうことを、自分たちは謙遜だと思っているのかもしれないが、もっと厳格に学んで物事を研鑽している他のアマチュアの成果を勝手に過小評価させるような事態に引きずり込んでいるだけなのだ。日本の伝統芸能と言ってもいい足の引っ張り合いに有能な人間が煩わされることだけは止めたい。
なお、鳥越氏は晩年に僕の出身校である大阪経済法科大学でも教えていたようだが、ちょうど僕が入学した1989年に退官されていたので、聴講はしていない。