Scribble at 2024-01-01 08:48:44 Last modified: 2024-01-01 09:09:49

アメリカにはキリスト教という文化的な背景もあって、説教師というのがいる。日本でもいるにはいるが、せいぜい早朝にラジオ番組で喋ってるくらいが関の山で、テレビ番組に出てきたり研究者として知られている人というのは殆どいない。例外として、どういうわけか日本では坊主がよくテレビに出てきたり、それどころか素人が適当な「思想書」とやらを書いてサントリーから賞を受けたりしているが、哲学どころか仏教学のプロパーで彼らの著作を真面目に読む人なんていないだろう。

アメリカでも、説教師はテレビ番組に出たり数多くの著書を出版しているし、それから経営コンサルやビジネス書の著者の多くはクリスチャン(しかもモルモン教という異端)という経歴をもっている、実質的には説教師のようなものだ。日経 BP や東洋経済やプレジデントといった出版社から毎年のように続々と出版されているアメリカのビジネス書の多くは、実際にはキリスト教(異端)の応用テキストみたいなものであり、結局それらは瀬戸内なにがしといった国内の坊主が書いている人生訓や適当なエッセイと大同小異なのである。『イノベーションのジレンマ』とか『七つの習慣』といった著作は、いまでも書店では定番のビジネス書として扱われているが、ああした著作物で展開されている内容も、基本的にはモルモン教の応用である。ケント・ギルバートのネトウヨ放談と、根っこは同じである。

これらは、もちろん読み物としては手に取る気分になるのもわかるし、それどころか読む意味もあるだろう。モルモン教が基礎にあるからといって、それだけの理由で「悪い」とか「学術的な価値がない」などと言える根拠にはならないからだ。それはモルモン教の応用どころか、『コーラン』や『わが闘争』すら何らかの意味での「古典」として読まれている事実でもわかるだろう。そこから引き出された現実の応用が、夥しい殺人や途方もない女性への人権侵害であろうと、だからといってイスラムの教典を国内で発禁処分としたり、ナチスの研究を禁止しても、それは単にリスク(この場合は予測不能な結果という意味であって、何か「悪いこと」が起きるという意味ではない。リスク・マネジメントという分野では、「良いこと」が起きても、それが予測不能な結果であればリスクと呼ぶ)を無視しているだけであって、決して理性的な態度とは言えまい。ただ、リスクがわからないからこそ、いたずらにのめり込んで会社を「ティール組織」にしようなどと思い立つ軽率な経営者が出てきては困る(自由経済の理屈だけで言えば、もちろん出てきてもよい。その結果として事業が継続できなくなったり組織が衰退しても、大局的には愚かな経営者が市場から退場するという「新陳代謝」にすぎないからだ)。

新年早々から妙な話題をしているなと思われるかもしれないが、もともとはこういう話題をしたかったのではなく、YouTube でレベッカ・ゴールドシュタインが哲学系のチャネルに「出演」しているのを見かけたからだ。このレベッカ・ゴールドシュタインという人物は、日本では殆ど(科学哲学のプロパーにすら)知られてないと思うが、アメリカの在野の科学哲学者と言ってもいい人物だ。ただし、何か目立つ業績があるというわけではなく、なぜかは知らないが続々と著書を出している人物である(もちろん、日本にも殆ど学術的な業績が無いにも関わらず、「哲学シンカー」などと言って会社まで作っている哲学のプロパーがいたり、毎年のように続々と本を出している三流大学の教員がいるし、アマチュアでもせっせと本を出したり都内の思想おたくを集めるイベントを開いたりしている人物がいて、かような人々も或る種の説教師とか、広い意味での著述家なり文化人と言ってよいのであろう)。それから、レベッカ・ゴールドシュタインは下世話な脈絡ではスティーヴン・ピンカーという、これまた著述家としては世界的に知られている有名人の連れ合いとしても知られている。

でも、どれほど有名であっても彼らの名前が後世に残るなんてことはないし、いわんや学術研究書に名前が残ることもない。彼らの著作を引用する科学哲学のプロパーは、まずいないからだ。セレブというだけで、学術論文に彼らの発言が引用されるなんてことはない。どのみち学術研究としてのインパクトがなければ、彼らの学問への影響力は(僕がここでも PHILSCI.INFO でも力説しているように)ゼロ加算である。それは、プロパーに対する影響力がないというだけではなく、彼らの著書を読んで科学哲学を志そうなんて若者が殆ど出てこないという社会的な脈絡においても、ほぼ影響力はゼロだと言ってよい。同じく日本でどれほど有名だったり、サントリーの何とか賞を授与されたり、東大教授になっただの、政府のなんとか委員だの、本が売れて長野県に別荘を兼ねた書斎を建てただのという、しょせんは哲学や思想と何の関係もない当人の生活にとっての成果が紹介されようと、そんなことは学術的にも無意味だし、世の高校生や中学生が「僕も別荘を兼ねた書庫を長野県に建てたい」なんて理由で哲学や思想を学び始めるわけもあるまいと思う。

すごくシンプルな話なんだよね。彼ら物書きは、彼ら自身が哲学者や思想家として何を成し遂げたというのか、という話なのだ。大量の本を書いたとか、政府のなんとか委員になったとか、東大教授になったとか、それは哲学や思想における何かの業績に数え入れるようなことなんだろうか。確かに、そういう業績があったからこそ、彼らには一定の身分が与えられたりしたのかもしれないが、少なくともそれがどういう業績なのかは僕らには分からない。僕は国公立大学の博士課程に進学したていどの素養はある人間だが、彼らセレブの物書きについて何か目覚ましい業績があったという評価は見聞きした覚えがないし、少なくとも彼らの中で一人でも、僕が所属している日本科学哲学会の学術誌に一度でも論文を掲載したという事実すらない。

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