Scribble at 2022-11-16 23:53:32 Last modified: 2022-11-17 00:07:54

ここ数日、短歌について書かれた著作とか論説とかウィキのページを眺めていて酷く失望していた。詳しい理由は一時的にここでも掲載したが、すぐに取り下げたので、殆ど読んでる人などいまい。また、それでよいと思う。些事としか思えない事情や理由について述べたところで、何も変わるまい。ただ単に僕が自分の見識において明治以降の俳句と短歌の全てを無視して、殆ど古今和歌集や万葉集だけを読めばいいだけだ。もうそれらは明治に入って文化としては消滅したものとして扱えばいい。別に僕が俳句や短歌の歴史を公に書くわけでもなし、それが明白な誤りであり事実でないとしても、主観的にはそれらの文学は死んだも同じだと僕が思っているだけの問題だからいいのだ。よって、誰も僕に問うまいが、改めて誰も僕に明治以降の俳句や短歌について問わないでほしい。もう、まったく 0.001mm も興味がなくなった。

ただ、一読して得るものがあった本は、確かにある。たとえば種村弘氏の『はじめての短歌』(河出文庫、2016)という本を一読したときに感じたのは、短歌は好きに作ればいいということであり、それどころか短歌なんて別に作らなくてもいいんだということが分かった。短歌を作るとはすなわち生きることの一部であるからして、それが文字として現れたり書き留められたり、ましてや新聞の投稿欄に掲載されたり皇族に教える身分になるかどうかは、実は些細なことにすぎない。万葉集や古今和歌集の、殆ど国文学者くらいしか覚えていないような一首でも、たぶん戦後のどんな有名な歌人が詠んだ和歌や俳句よりも、このさきずっと記録されたり読まれたり保存されるだろう。それに比べて、あの『サラダ記念日』ですら、あと数十年もすれば新刊書店どころか古本屋からも消えてなくなるに違いない。せいぜい、国語便覧で紹介されるのが関の山であり、大きな公共図書館にでも行かなければ所蔵されていないような本となるだろう。でも、それでいいのだ。

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