Scribble at 2023-10-03 21:44:08 Last modified: 2023-10-04 09:58:00
というわけで、この一件はこの落書きが最初で最後になると思うが、哲学者がわざわざ時間を数分ほど使ってバカについて論評しておこう。ちなみに僕は、上記の記事で信夫君が取り上げているような、ウィキペディアからのコピペで本を書くようなインチキ構成作家風情の掲げる、ただのマーケティング用語としての「保守」などとは次元の違う保守主義を掲げているので、かようなまさしく泡沫のタワゴトが同じ語句を使っていようと狼狽えたりはしない。思想というものは、もちろん言葉によって敷衍したり言及され理解(もしくは誤解)されるものではあるが、本質的には言葉だけが重要なのではないからだ。
おおむね池田信夫君と同じ意見だが、困ったことに日本の政治家も物書きも右翼と保守の違いが分からない(あるいはわざと混乱させている)ため、こうやって簡単に保守だのリベラルだの、あるいは左翼だの右翼だのという自意識言葉を振り回す。しかも歴史的な経緯とか含意も無視して、例の「理系・文系」とかと同じく敵と味方を区別する隠語のように使っており、まったくもって無知無教養な連中を逆に見分けるためのバカ発見キーワードとなっている。それゆえ、保守という言葉もまた同じように扱われるので、ここで書いていることも同じ次元の話だと見做されてしまうのが残念だ。
僕が保守するべき価値と見做しているのは、日本なんていう矮小で人為的な区画にすぎない国などという単位の話ではなく、いわば人類が共有する(かもしれない)文化人類学的なスケールと水準と経緯をもつ行動規範や思考や価値観である。それは、文化人類学的な次元と生物学的な次元とに跨るような、敢えてわれわれが保守するとかしないとか言わなくても生得的にそうするしかないような特性も含まれる可能性がある。たとえば、自分の子供が殺されたら怒るとかだ。しかしともかく、こうした価値観は、万世一系だろうとそうでなかろうと、そんな(不敬を承知で敢えていうが)些末な事実には左右されない、人類の普遍的な特徴として措定できるかもしれないことがらの話である。
もちろん、「科学的」であることは人類にとって不可避の経緯による価値観ではない。つまり、人類は非科学的に、それこそ「万世一系」などとタワゴトを口にしながら愚かな戦争を繰り返し、致命的な伝染病などの蔓延にも抵抗できずに、生物種として1,000年くらい前に死滅してしまっていた可能性だってあったろう。これは科学哲学者としての僕のスタンスでもあるが、「科学的」であることは、われわれが選択できる唯一のスタンスでもなければ、最善のスタンスでもないという可能性はある。なぜなら、その場合の「最善」という価値観を決めるのは科学ではないからだ。信夫君のように、ときおりポモの本を紹介して歴史主義を支持しているユマニストのふりをしながら、他方では自然科学の通俗本ばかり取り上げてインチキな理系というポジションからのマウンティングばかりやっているような、イージーなリバタリアンに特有の思想的に支離滅裂な態度では、こうしたガチの哲学者の議論にはついて来れまい。
しょせんは経済評論家の一人にすぎない信夫君のようなユマニストまがいの人々と哲学者との違いは、どちらも人文系の知見に携わってはいても、「人類」を指標にしているかどうかに大きな違いがある。われわれ哲学者にとって、人類は基準でもなければ目標でもない。なぜなら、この宇宙なり世界はヒトが生物種として生まれていなかったり、あるいは(そう遠くない未来に?)生物種として死滅したとしても、そんな究極の些事とは関係なく存在するからだ。そして、この冷酷な真実を認めて、なおかつそれを問う動機なり関心があることにこそ、哲学者であるかどうかの明白な違いがある(なので、当たり前だが経済評論家であるか、それとも哲学者であるかという違いは、優劣や頭の良さの違い、なかんずく善悪の違いなどではない。これだけは、信夫君のささやかな名誉のために強調しておこう!)。もちろん、哲学者である僕らもヒトである限りはヒトとしての制約なり限界を超え出られるものではない(そんなことができると思うのは中二病だけだが、実は中二病の想像もヒトの限界の内側でしかない。そこが、なにやら衒学的な思想家っぽいフレーズを著作に散りばめていながら、どれほど有名な SF 小説家やアニメの映画監督であろうと哲学者とは言えない最大の理由である。もっとも賢明な人であれば、哲学者だの思想家だのと呼ばれたがっているとは思えないが)。