2019年07月30日に初出の投稿

Last modified: 2019-07-30

「障害者差別解消法は障害者への合理的配慮を求めている」というが、その合理性の基準は誰が決めるのか。

日本中を「バリアフリー」にするのは不合理だ

「合理的な配慮」の "reasonable" という字面に固執してるようだが、典型的な論点外しだ。そもそも、何が合理的な配慮であるかは障害者の権利に関する条約で「障害者が他の者と平等にすべての人権及び基本的自由を享有し、又は行使することを確保するための必要かつ適当な変更及び調整であって、特定の場合において必要とされるものであり、かつ、均衡を失した又は過度の負担を課さないものをいう」と書かれていて、このような場合の "reasonable" は「正当な理由がある」という意味であって、信夫君のような口先リバタリアンが言うところの初等的なレベルのゲーム理論に適した「効率」とか「数理的な計算可能性」みたいなものとは関係がないのである。よって、彼がこういう思い込みのまま後半にも「合理性の基準は費用対効果である」と述べているのは、現実的な福祉政策の話としては言葉のままリアリティがあるにしても、理念の話としては完全に間違っているか、リバタリアニズムが正しいという前提を証明することなしには主張できない論点先取である。

「障害者の介助にどこまで公的支援が必要かは、民主的決定によるしかない。そういう問題を国会が論じるのはいいが、その『当事者』が国会議員になる必要はない」という話も、障害者差別解消法が成立した際の "Nothing About Us Without Us!" という方針を全く理解していない、これは控えめに言っても無知としか思えない議論だ。こんなことは少しでも障害者差別に関心をもって基礎的な本を読んでいれば知っている筈の基礎的な教養であって、リバタリアンがいかに福祉や社会保障に関心のない成金の経済学や社会思想しか語っていないかを如実に表している。そういう意味では、典型的なパターンなので面白く彼のブログ記事は読んでいるのだが、これはいかにアジアの僻地で三流大学の教員が書き散らしたものでも酷過ぎる。

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