Scribble at 2023-09-17 13:04:05 Last modified: 2023-09-17 13:57:26

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西尾幹二『自由の悲劇―未来に何があるか』(講談社現代新書、1990)

書誌情報は掲載しておくが、アマゾンのリンクは設定しない。絶版で入手が難しいという理由もあるが、そもそも読むに値しないと考えるので、他人にもお勧めしたくないからだ(とは言え、悪影響があるからといって絶版にすべきだとは思わない。人は歴史に学ぼうとしないので、過去の誤謬や失敗は残しておかないと同じ過ちを繰り返す。そして、僕はそれは人の社会の「伝統」だとは思っていない。もしそれが人の社会の本質や避けられない特性であるなら、そんな愚鈍な生物種は早く滅亡した方がよい)。そして、これは重要なポイントだと思うが、僕は保守主義の思想を奉じる者としてこういう判断を下している。

西尾氏の論旨を煎じ詰めて言えば、大衆は馬鹿だから自由を手にすると碌なことにならない。それゆえ自分で何か決めたりやれると思い込んでいる僅かな選択肢ではなく、自分たちが最初から負っている能力や出自や民族性あるいは凡人であるという圧倒的な無能さを直視して、身の程をわきまえるほうが安全で静謐な生活ができるというわけだ。根本的に他人を信用していない人物の発想であり、もう少し具体的に言えば典型的なファシストの発想である。そして、これは僕の考える保守主義とは何の関係もない愚劣な思考というものだ。

こういう、本来なら他人なんてどうでもいいと思っているような人物は、講談社現代新書の本なんて書かずに黙って山奥にでも隠遁していればいいものを、中途半端にエピゴーネンがほしいといったスケベ根性があるゆえに物書きとして振る舞い続ける。およそ日本において「思想家」だの「論客」(本来は物書きという意味は含まれない)だのと呼ばれている人々は、簡単に言えば物書きあるいはせいぜいカルチャーセンターやセミナー会場で持論をぶち上げるような連中でしかなくなるというのは、或る意味では悲しいことでもある。もちろんそうでもしなければ金持ちしか思想や学問を語れないという事情もあろうが、僕らのような哲学者に言わせれば金がないと物事を考えたり学べないという思い込みや刷り込みこそ、日本の出版業界や教育産業が100年近くに渡って積み上げてきた巨大なイカサマ、トリック、あるいはインチキなのである(もちろん、だからといってペンと紙だけとか、自分の頭一つで学問ができるなどという思い上がりも、しょせんはマスコミが作り上げた「孤高の天才思想家」などというラノベにも劣るような御伽噺に多くの人々が感化されてしまっている結果だ)。

保守というものは、人類あるいは誰であれ多かれ少なかれもっている特性や能力の範囲で可能な習慣とか思考を認めることから出発する思想である。よって、大学教授であろうと歌舞伎町のチンピラであろうとアイヌ人であろうとロシアのクズ大統領であろうと科学哲学者であろうと、人である限りは認められてよい特徴だとか能力を誰でももち、そしてそういう能力や特徴からしか人の生き方や人の社会のあり方を考えられないという前提にコミットしている。しかし、それは「その範囲で身の程をわきまえておけばよい」などと断じるファシズムとは違う。自分の能力の限界なり無知をわきまえるからこそ、それを上回る知識や技能を求めたり、あるいは求めるべきだと教えるのが本来の保守である。したがって、大衆は放っておいて自分たち物書きや自称思想家や知識人だけが学問や思想を語ったり気にしていればよく、そういうものを気にする「自由」など凡人にとっては混乱を招くだけの不幸のもとであるなどという発想は、保守でもなんでもない、大昔のソヴィエト共産党の官僚や大日本帝国海軍の将校みたいな発想、様するに国家社会主義者の発想でしかあるまい。

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