Scribble at 2024-01-26 20:28:32 Last modified: 2024-01-28 09:34:47

常識的な人々はあたりまえのように弁えていることとして、だいたい歴史にかかわる物書きで馬鹿が使う言葉って決まってるんだよね。

「シン・~」とか、

「逆説の~」とか、

「知られざる~」とか、

「はじめての~」とか(入門書のフリをしたプロパガンダの本がよく使うフレーズだ)、

「~の逆襲(逆襲の~)」とか、

「真実の~(~の真実)」とか、

「決定版」とか、

「隠された~」とか、

「~の正体」とか、

「失われた~」とか、

「絶対」とか、

あるいは「究極の~」とか。もちろん教科書や大学のテキストが「正しい」という保証なんてないのは学術研究者の共通理解だし常識というものだが、どれほど間違いの可能性があろうとスタンダードな知見や権威から出発するのが常識であり大人だろうと子供だろうと、まともな素養と知性をもつ人間の態度だ。たかだか数千円や数百円の読み物に真理や真実が書かれているなどという妄想から出発するのは、端的に言えば年齢にかかわらず未熟な人間、あるいはなんらかの強迫観念やコンプレックスを抱えた精神疾患の患者だけだ。まともじゃない。

もちろん、こういう馬鹿言葉は自費出版の素人やアマチュア(専門外なら、たとえノベール賞の受賞者であろうと)だけではなく、大学教員つまりプロパーの歴史学者や考古学者でも使う。出版社つまりは編集者の「本を出版してやるから言うことを聞け」みたいな威圧に抵抗できないクズなんていくらでもいるからだ。それが学閥のボスの紹介で書くなら、自分自身の地位にも関わることなので、更に言うことを聞くしかなくなって、どちらかと言えば編集者が好むような内容の本を書く羽目になる。ちなみに、こういうのに左も右も関係ないのであって、左翼系の出版社だろうと右葉系の出版社だろうと、あるいはイデオロギーなんかどうでもよくて売れさえすればいいという幻冬舎みたいなのもそうだが、言ってみればそれなりに名前が知れた出版社ならどこでもこういうことはやる。たとえば、作者との連携が美談として描かれることは多いけれど、マンガの編集者なんて実態はこういうパワハラの典型だろう。

で、どうして馬鹿のくせに本を出版できるのかと言うと、これは日本だけの話ではないが、実は本を出してもらえるかどうかというのは、学歴とは関係ないし、研究実績もあんまり関係ないし、そして馬鹿かどうかも関係がない。馬鹿が勝手なことを書いてくれると、色々な人が批判するために宣伝してくれるから、逆に儲かるわけだ。ネトウヨ構成作家が毎年のように馬鹿げた本を書いて幻冬舎とかフジサンケイグループの出版社とかから出してるのは、内容なんて正しかろうと間違っていようと、いや名誉毀損で裁判沙汰になろうと、大手の出版社にとっては痛くも痒くもないんだよね。たとえば、彼は既に亡くなった歌手の評伝みたいなものを書いて遺族から訴えられていたけれど、それで誰が被害を被るのかと言うと、その家族だけだ。ということは、天地をひっくり返したり、あるいは右翼に会社が襲われるような話じゃない。出版社が襲撃された話なんて、ビートたけしの弟子が写真週刊誌の編集部を襲った事件から何十年も起きてない。

要するに、立派な仕事をしている出版社もたくさんあるわけだけど、ひとたび坂を転がりだすと、売上のために幾らでも劣化し零落できる。そして、それで右翼やヤクザや左翼に襲われる心配もないんだから、気楽な商売というわけである。というか、もし襲われる出版社があったとしても、「それでもわれわれは言論の自由のための闘う」とか言って、社員がどれだけ死んでも事業は続けるだろう。だって、大手出版社の経営陣なんて、ほとんど会社にいないんだから。あるいは経営者が自宅の前で襲われたとしても、社員は平然と仕事を続けるだろうと思う。売上やパブリシティのことしか関心がないロボット編集者どもなんて、頭の部品がガンダムからゲッターロボに変わろうと知ったことじゃないからね。

余談として、学術的な業績があっても、学問の世界にはどうしても学閥というものができやすいので、誰それ先生門下とか、あるいはどこの大学を出てるとか、そういった経歴で特定の大学には就職できなかったり、あるいは有力者が特定の出版社とつるんでることも多いので、その人物の息がかかっている人たちしか出版してもらえないといったことが起きる。これは、人文系だろうと社会系だろうと自然・工学系だとうと、あらゆる分野や学科で生じるし、いまも脈々と受け継がれている、アマチュアの僕らに言わせれば陋習としか言いようがない、学問への完全な冒涜行為である。これを学問の担い手を任じている学者自身がやっているのだから、人のやることなんて東大教授だろうとノベール賞を受けた人物であろうと、半分は鼻くそをほじりながら聞いたり読んだほうがいいのだ。もちろん、僕は権威主義者なので、そのへんの素人や一般人の「知恵」なんて簡単には信用していないが、だからといって全く信用しないというのは悪い権威主義である。人のやることについて可能性が全くないとか絶対なんて言うのは、根拠や合理性がないからだ。

  1. もっと新しいノート <<
  2. >> もっと古いノート

冒頭に戻る


※ 以下の SNS 共有ボタンは JavaScript を使っておらず、ボタンを押すまでは SNS サイトと全く通信しません。

Twitter Facebook