Scribble at 2020-10-15 09:06:51 Last modified: 2020-10-17 10:08:11

昔から出版されている著作物などを雑に眺めていても気づくことなのだが、死生観を論ずる一つの典型として「死も初めての経験だから楽しみだ」と書く人がいて、非常に痛々しい思いがする。これが心理としては疑うことなき自己欺瞞であることは明々白々であり、いちいち指摘すること自体が野暮というものであろう。

第一に、「死んでゆくこと」は経験になりうるかもしれないが、「死んでいること」はただの生理的ないし物理的な《状態》にすぎず、そこには自覚も主観もない。よって、我々が経験しうるとしても、死という状況そのものは無関係である。まさに死に向かって推移することだけが、可能だとしても経験の範囲なのである。

そして第二に、現実的な話として多くの人々は死ぬに及んで「経験する」などと悠長に構えられるような経緯を踏むわけではない。呼吸することすら困難になって数多くの機器にサポートされたまま衰弱していくとか、あるいは後ろからバカが運転してきた車に追突されて数秒も経たずに意識を失ったまま死亡するとか、それとも癌の痛みに苦しみながら最後を迎えるとか、そういう事例も多々ある。2年前に亡くなった僕の母も、入院していた原因は卵巣癌だったが、最後は早朝に吐血したまま呼吸できなくなり、看護師が駆け付けて処置したものの、そのまま死亡したという。このような事例は、それほど珍しいものではないだろう。

おそらく、そうした悠長な死生観を公に大勢に向かって論じるなどという恥知らずなことをする人間の心理というものは、自分自身が死ぬに及んでは平静な状況であれかしという願望の表明でしかないのだろう。そして、そういうことを素人が暇潰しに都内の出版社を使って繰り返すのは哲学者として着目するに当たらない些事ではあるが、些事として捨てるに及ばぬほどの影響を与えている「宗教」と呼ばれる活動については、やはり一定の素養をもって対処する必要があろう。豪奢な建築物や緻密な解釈学の体系といった数々の事績は、結局のところ《死ぬのが怖い》という心理を誤魔化すための巨大な欺瞞であり、我が国においては思想として最も強力な頂点が仏教である。

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