Scribble at 2020-07-09 09:49:35 Last modified: unmodified

ゲーム、しかも最近の MMORPG のように職業だとか商売だとか《生活》の一面をシミュレートしているかのような体裁を実装している大掛かりなゲームや、そもそもゲーム内で何をするかすら決まっていないような、あの懐かしき Second Life といったゲーム(あれを「ゲーム」と呼ぶべきかどうかすら議論があった)について、しばしば「もう一つのリアル」なのかどうかといった話題が繰り返されてきた。

僕は簡単に言って、ゲームを僕らが生きている生活の中で何か特別な意味をもつものだと考える、しばしばオタクや安物評論家に多い、それこそセカイ系と言っていいような意見には与さない。仮にネット・ゲームやコンピュータ・ゲームの作り出す「世界」がどれほど「リアル」で多機能であろうと、ゲームをプレイするということは、とりもなおさず田舎のホテルにあるゲーセンでインベーダーをプレイすることと完全に意味は同じである。しかし、これを説明したり正当化しようとして、これまでの(言わば《保守的な》)人々は数多くの間違いを犯してきていると思う。こういう議論は、テクノロジーに興味がなく素養も経験も欠けているような人が、教科書に出てくる見本のごとき現状維持バイアスによる反感だけで展開しても無効であり無意味なのである。

まず程度の低い反論の典型を紹介する。それは、「現実生活」なるものと SNS やゲームの活動とを実体化した上で、最初からそれぞれ違うと断定し前提するものである。「現実とゲームは違う」。しかし、丁寧に社会科学の勉強をすればわかる通り、gamification などというイカサマの概念を振り回すまでもなく、ドラクエをやろうとやるまいと多くの人々は一定のルールにしたがって社会的な役割を担って相互に交渉したり通信するという、全く比喩でもなんでもないゲームを執り行っている。逆に、ファイナル・ファンタジーのような MMORPG のプレイ環境において、交渉だとか販売だとか諍いやイベント運営など、我々が町内の自治会や学校の生徒会や企業の衛生委員会などでやっている活動の、シミュレーションどころか場合によっては規模や仕組みにおいても「現実の」活動を凌駕していたり、あるいは仕組みとしても「現実の」活動より洗練されているような社会なり相互関係が成立している。よって、事実上は「現実とゲームは違う、なぜならゲームに現実はないからだ」といったタイプの殆どトートロジーと言えるような前提で議論しても、それは単にその人が《ゲーム》とか《社会関係》というものについて社会科学的な知識を欠いている事実をおおっぴらに表明しているだけのことだ。

すると、両者を実体化して区別できないと理解した人の中に、もう少し進んで反論を試みようとする事例が出てくるのだが、その多くは別の間違いに陥る。たとえば、「現実とゲームの区別が簡単ではないとしても、現実生活では予想のつかないことが起きるのに比べて、ゲームの機能やイベントは想定内のことばかりだ」といったタイプの議論である。このような議論も、1960年代くらいまでの文芸批評や哲学では通用したが、およそ社会科学とは人々の生活や社会関係にあって特徴的な性質とか普遍的な関係なり作用を見出すことでもあり(それだけが社会科学の意義だというわけではない)、かたや複雑系の科学において顕著な成果が出ているように、ゲームに代表される単純な規則と初期値だけの仕組みから想定外の複雑で巨大な結果が出てくるという事実も知られており、現実は複雑でゲームは単純だといった単純な理解こそが、既に時代遅れどころか誤謬と言っていいものとなっている。

しかし、このような議論を逆に杜撰な外挿で肥大化させてしまったのが、現今の安っぽい SF やアニメやゲームの素人批評、いや実際には職業的な批評家や大学教員、あるいは「思想家」を名乗る人々による(当人が自覚しているかどうかはともかく、実質的には映像やゲームという産業のプロパガンダと言ってもいい)議論であった。これに、困ったことにレイ・カーツワイルらのようなテクノロジーの知識に多少は長けている人々が主導する(技術的)シンギュラリティーのプロパガンダが組み合わさっているのが、ゲームどころか、それこそ「現実」をも取り巻く批評の現状というものであろう。

しかし、それらは全て錯覚である。生物学的に不老不死などありえないし、アップロードするべき意識も実在しない(私見では、意識というものは脳のはたらきの副作用なり残響効果を脳内で知覚したときの観察内容にすぎず、敢えて粗く言えば「文化」の一つでしかない)。「現実生活」と「ゲーム内のやりとり」が社会科学的に正確な区別を許容しないのは確かだが、それは両者に何か《文学的に表現するべき素晴らしい本質》のようなものがあるからではなく、単にヒトという生物がやっている活動として自然科学的に区別する理由がないというだけの話である。相手に愛を告げるにあたって、目の前で話すのと、チャット・サービスでウェブカメラ越しに話すのとで、何か本質的な違いがあるという人は、確かにメディアとか機械や通信を使うという外形的な違いに固執しているだけのことでしかないだろう。しかし、目の前で話すこととチャットで話すことに区別がないと言う人においても、チャットだって本人の顔を見て話していると言う限りは、まだ両者について「相手の顔を見て話す」ことがコミュニケーションにとって重要だと言っているのと同じであり、新橋の居酒屋で喋っている(たいていは寝技しか能がない)上場企業の部長と同じレベルである。

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