Scribble at 2021-06-28 16:26:50 Last modified: 2021-06-28 16:31:41

当家は、両親もそうだし僕もそうなのだが、溜息というものをしない。なので、他人が溜息をつくと(少なくとも当家では見かけない態度なので)非常に気になるし、何度も溜息をつく人にはそれなりの不快感を覚える。つまり、僕らと接したり近い距離にいるときに限って溜息するということには、やはり言外の意図があるように思えるからだ。溜息とは、要するに嘆息すること以外の対人的な意味合いはなく、何について溜息をつくのかはともかくとして、まさか溜息をつく本人が喜んでいるとは誰も思わないだろう。

ということで、僕は「助けてくれ」と言うわけでもなく、人前で嘆息だけして不幸な境遇をアピールして回るような人(に見える人)の挙動は不愉快である。かといって、当家のみんなが俗に言う「ポジティブ志向(場合によっては自分をそう差し向けるという意味で『指向』と書いてもよいだろう)」だというわけでもない。母親は何かあれば「死にたい」などと軽口を叩くのが習いだったし、僕はここでの文章を幾つか読んでいる方にはご承知の通り、世の中の大半の物事や人間は凡庸で(それ自体は悪いことではないが)クソだと思っているからだ。しかし、溜息などついたところで不安や懸念が解消するわけでもなんでもないし、何かの心境として仕切り直しできるわけでもないことを弁えるくらいの知恵は共有してきたのだろう。

こうした、家庭とか夫婦とか友人とか具体的で特殊な(場合によっては一時的な)人間関係のあいだでだけ共有されたり通用している決まりごととか身の処し方とか決り文句とか、それこそエスノメソドロジーの対象と言って良い局所的なルールなり刹那的言語ゲームとも言うべきものがある。そして、それらは些末で当人たちの自覚も難しいために、なかなか記録されないし、記録されていたとしても第三者である社会学者や社会言語学者やマイクロ倫理学者らが見つけ出すのは難しい。いわば、全くの見ず知らずの他人が書いた日記を読ませてくれと頼み回らなければいけないからだ。そして、どれほど夥しい人数の凡人が「自己表現」なるものを世界中で繰り広げるインターネット時代とやらになったと言っても、実はその大半の表出においては、当人にとって無自覚なことはわざわざ表出されないという当たり前の理由で、何ペタバイトだのビッグデータだのと言っても、そうした局所的なルールを推定させるに十分な言動の記録というものは、自然言語解析のソースとして殆ど手に入らないと思う。

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