Scribble at 2022-03-15 12:57:30 Last modified: 2022-03-15 13:18:54

「科学論」という表現がマスコミ用語だと言っているのは、もちろん事実上の用法が学術的ではないという意味だ。簡単に言えば、「科学論を専攻している」などと自己紹介する大学教員とか学術研究者はいないということでもある。そして、海外でも似たようなものだと思うが、とりわけ日本では一種の左翼用語でもある。これは、日本で人文・社会系の本を出している出版関係者(経営層)の大半が左翼であるという事情からもきている。つまり、科学はしょせん文化の一つであり「上部構造」なのだから、生産手段という「下部構造」を独占するべきプロレタリアート、つまり庶民の支配を受けて管理されるべきであるというわけだ。したがって、この国でも公務員試験の掃き溜めと呼ばれる文部科学省の官僚が庶民を代表して、科研費とか大学への助成金を使って研究内容とか大学人事とか教科書の内容をコントロールしているのは、〈良いこと〉なのであろう。

そのような次第で、とりわけ自然科学の研究内容とか研究成果の社会的な含意について、良しあしを判断する権利は「科学論」という武器をもつ庶民の側にあるらしい。こういうシビリアン・コントロールのような牽制関係がないと、たとえば水質汚濁とか、放射能汚染とか、われらが地球の環境や資源をもてあそぶキチガイどもが大学で勝手なことをやらかすというわけだ。もちろん、科学が文化の一種であり、或る意味では取捨選択しうる問題でもあるという一点は、科学哲学者としても正しいと言わざるをえない。たとえば、いくら合理的で効率的で「人のためになる」からといって、亡くなった人の臓器を無断で移植に使っていいわけがないし、その手の権限を医者に無制限に与える法律を成立させていいとは限らない(そもそも医師が「科学者」であるかどうかはともかく)。

しかし、科学の何を認めて何を規制するべきかを、凡人が勝手に決めていいかどうかも自明ではない。もちろん、プロフェッショナルな科学の観点では凡人の中に入る科学哲学者が「科学方法論」などと言って研究の実務について良しあしを決めていいわけでもない(科学哲学について自然科学者の多くが誤解して敵愾心をもつのは、この誤解が理由だろう)。科学に限らず、いかなる学術研究についても一定の自立性があってしかるべきだし、それを一定の範囲で保証するのが学問の研究の自由というものである。しかし、噴き上がって都合のいいときだけ支配欲が強くなる凡人や出版・マスコミ関係者というものは、そういう条件とか基準とか範囲について冷静な議論はしたがらないものである。よく言われることだが、バカの特徴は条件付けや場合分けをしようとせずに、無条件の短絡的な目標やアイデアに飛びつくことだ。世の中には「悪いやつ」と「良いやつ」の二通りしかなく、原発をつくる科学者は「悪いやつ」なので、「庶民感情」とか「お茶の間感覚」とか「主婦の立場」とか「記者の視点」という、古来より連綿と凡人に受け継がれてきた神器のようなものによって支配しなくてはいけない。そのような神器を据えて支える台のようなものが「科学論」なのだ。

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