Scribble at 2023-10-31 11:36:00 Last modified: unmodified

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イランの国営メディアと人権活動家らは28日、今月初めにイランの道徳警察に殴打されたとみられ、その後に意識不明の状態が続いていた少女が亡くなったと発表した。

イランの地下鉄で倒れた少女が死亡、ヒジャブ着用めぐり道徳警察が殴打か

僕が支持している「権威主義」という言葉を聞くと、少なからず上記のような事例を思い浮かべる人は多いと思う。そして、それゆえに権威主義は悪いものだという印象を得て、それを支持すると公言する者は「権威主義者」という悪者であり、ファシストであるという評価になる。それは、まさか僕らも知らないわけがないし想定していない筈もないのであって、承知の上だ。

僕は、そのうえで権威主義には "good parts" があると考えていて、それを安定的かつ安全に独立して運用できると考えている。そのためには、まずそのような "good parts" があるという前提を説明しないといけないだろう。なぜなら、権威主義に良い権威主義も悪い権威主義もあるものか、全て権威主義は悪いのだと思うような人にしてみれば、"good parts" なんて最初から存在しないと思う筈だからだ。

無論だが、僕はイランの「道徳警察」という制度や、その末端の人員の振る舞いとか信条とかを擁護したり正当化するつもりはない。それらがイスラムという特定の宗教の戒律や原理から導かれているなら、なおさらである。なぜなら、僕は権威主義というテーマとは関係なく、哲学者として宗教に(かなり離れた)距離を置いているからだ。

ありていに言えば、宗教とは「死にたくない、死ぬのが怖い」という強迫観念を和らげたり忘れさせるための巧妙で壮大な気晴らしやトリックの文化的な集積にすぎないのであって、死の観念を得てしまった人が死の恐怖で狂ってしまい自暴自棄になるのを防ぐ文化的な防御機構だと言える。そういう意味では効用があると言えるのだが、たいていの宗教は過剰な仕組みを作り出してしまい、自己目的化してしまっているため、本来の意図や趣旨とは無関係なことにまで膨大なルールや形式を設定したり要求してしまう。仏教、キリスト教、そしてイスラム教、あるいは他の新興宗教やカルトのようなものまで含めて、殆どが本来の趣旨とは関係のないことに血道をあげており、上記のような「道徳警察」のようなもので体制を守らなければ他の宗教、あるいは政治思想に負けるという危機感をいだき、無用な戦争や紛争あるいは国内のさまざまな人権侵害を引き起こす。死の恐怖を忘れるための気晴らしだったものが、いまやそれ自体の理屈で他人に死を与えるという倒錯を引き起こしており、したがって僕はこれら現代の制度的な宗教を文化的な錯乱の結果だと考える。どれほど美しい教会美術やゴスペルや Gregorian chant を後世に残したり、難解な理論を言語表現なり概念として打ち立てていようと、僕ら哲学者から言って、宗教とは巨大な錯覚あるいは自己欺瞞でしかない。そして、哲学とはまさにそれと同じような錯覚や自己欺瞞ではないのかという反省を常に問い続けて、自分自身の能力や動機や思考や結論を疑い続ける、いわば自己破壊的な営為であって、そのへんで2,000円たらずで販売されている『嫌われる勇気』だの『イラスト哲学用語事典』だのを読んだくらいで始めたり続けたりできるようなことではないのだ。

しかし、それでもどこかに出発点や基礎を置かなくてはならず、それが暫定的なものであっても必要だ。思いつくままに徒然とものを考えるというだけなら、そんなのは宗教以下の暇潰しでしかないからである。そして、そこでポイントになるのが「権威」であり、「コミットメント」である。権威となる理屈とかコンセプトを据えて、そこにコミットすることで暫定的な思考の出発点にはできるが、権威主義だからといってコミットした権威が無謬であるとか更新不能であるなどとは考えない。それは、僕の言う権威がコミットメントによってのみ支えられる、本質的に暫定的で改訂可能なものだからだ。ここには、もう一つの大きなポイントとして「有限主義」があり、これは可謬主義とも言える。人は全て有限の能力しかもっておらず、その集積であるグループや国家や人類全体であっても、有限であることに変わりはない。もちろん、その限界は遠くにまで及ぶため、アニメやラノベやインチキな経営書によくある通俗的なフレーズのように「人には無限の可能性がある」とかいった表現を一概に否定するものではない。限界がどこなのか分からなければ、実質的に無限であるのと変わらないからだ。しかし、それは限界が分からないということを肯定的に捉えてもいいが、人が自らの限界を思い知るための自戒として理解してもよい。つまり限界がわからないのは、人の能力が有限だからでもあり、要するに人は自らの限界すら分からないという有限な能力しかもっていないとも言える。

よって、いったん据えただけにすぎない権威に無制限の力など与えてはいけないのであり、権威はその正統性や妥当性に重大な欠損や問題があれば、取り除かれなくてはならない。もちろん、人の生命や財産にかかわる場合は、昔のように内乱とか暗殺といったあらっぽい仕方で権威を取り除くこともあるが、現代においては、もっとマシな、選挙制度という手続きがある。

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