Scribble at 2024-06-18 08:50:32 Last modified: 2024-06-18 08:50:55
思うのだが、文書あるいは最初からデジタル・データであればなおさら、もうシンプルに公文書は全て永久保存として扱い、国の機関を設けて各自治体や官公庁から収めさせるような法令を定めた方がいいと思うんだよね。簡単に言うと、この手の「テヘペロ」で田舎者が続々と公文書を実質的に捨てるような愚行を軽視していると、この国で起きたことが良いも悪いも記録としては消えていき、またぞろ「忘れる国民」などといういう不愉快な伝統が繰り返される。ホントにね、海外から見たら、しょせんは刹那的情動の対象であるアニメやゲームや性風俗や飲食、つまりはサブカルと観光資源しかない、まさに風俗国家という印象になってるぜ。こういうことに、昔の民族派右翼なんて人たちはすぐに意見を述べたはずなのだけど、これだけ自由に意見を表明するメディアや SNS が普及していて、それこそ世界を相手に辻説法できるにもかかわらず、いまどきの右翼なんて、キャバ嬢を募集する宣伝カーと並んで街宣車を繁華街で乗り回すのが関の山だ。
元考古学少年だったという経緯もあって、役人が記録類を「誤って」破棄したり、図書館の司書が毎年の行事みたいに所蔵している本を処分するといった、僕には愚行としか思えないようなことを座視している国というのも酷いものだと思う。記録も書籍も、要するに僕らのやってきた成果であって、これを軽視したり簡単に処分してしまうというのは、これは若者に対してしばしば指摘される「リセット思考」と同じものだろう。つまり、若者はすぐに「リセット」してしまうなどと気軽に批評してる大人だって、こうして簡単に自分たちの過去を「リセット」して消し去ろうとする。上の事例は千葉県の話だが、たぶんそのうち「間違って」福田村事件に関連する記録を次々と消し去ってしまうのだろう。被差別部落の日本人を集団で殺害したなんていう、人として恥ずべき事実を残しておくなんて、日本人のメンタルでは耐えられないのだろう。だから、部落差別とか、朝鮮人差別とか、女性差別とか、そのほかありとあらゆる差別の痕跡を消し去ろうとして、どんどん建物を自然災害に壊すに任せて、新しく建物を建てたり商業施設を作っては壊し、要するに景観から何から「リセット」してしまおうとするのだろう。
そして、それゆえに、一部の例外はあるのだが、いつまでたっても同じ理由、同じ原因で、同じ結果を繰り返す。あれほど津波の被害が出ても、また何年か過ぎると海岸近くの低地に家を建てたり、あれほど土砂災害で被害が出たというのに、数年も経てば再び斜面の近くに家を立てる。まったく、「ニワトリ民族」かと思うほど過去から学ばない。これでは、歴史や考古学が、分析能力の乏しい好事家の対象にしかならないのも当然だし、実は軍略として真面目に考察されたことなど殆どない、戦国時代などと言われる人殺しの時代に生きた徳川家康などの顛末を『プレジデント』を始めとするビジネス雑誌で気軽に語るような、クズ文化しか発達しない。