Scribble at 2022-07-18 10:45:32 Last modified: 2022-07-18 10:57:08

以前も書いた話だと思うが、或るとき Facebook で同級生のアカウントを調べたことがある。こういうのは、実名で使ってる場合は出身の中学や高校の名前でヒットすることもあるが、そこまで情報を人前に出すかどうかは分からないため、friend でたどっていく方が効率のいい調べ方ができる。名前で検索などしても、たいていはどちらとも判断がつかないほど情報が少ない同姓同名がヒットするし、もっとアカウントが作りやすかった頃に大量に作成された偽のアカウントがヒットするからだ。そういう偽アカウントは、たいていは東南アジア系の人が(たぶん、そういう偽アカウントを作ってる連中は日本人ないし韓国人との区別がつかないのだろう)、日本人の名前でたくさんヒットする。そして、投稿を見ると女性はだいたいスケベ写真が並んでいて、その下にウイルスやフィッシングのページへ誘導するリンクがついてるというお約束だ。

母校で教えてもらっていた教員のアカウントさえ見つけたら、同級生がたくさん繋がっていることが多い(もちろん、気の毒かどうかはともかく、そうでない先生もいるわけだが)。僕の場合は、中学で歴史を担当していた教員には、数十人の同級生が friend として繋がっている。すると、その同級生のアカウントから他の同級生も見つかるというわけで、文字通り芋づる式に見つかる。そうやって見つけた同級生のアカウントのリストを作って、気が向いたら何年かごとに、とりわけ Facebook で投稿している実績がある人物のアカウントを見ていたりした。

でも、そういう下らない習慣も今回で終わりにしようと思った。僕が確認した限りでは、もう全員が1年以上も Facebook に投稿していないからだ。もちろん、プライベートなグループを作って、そこを熱心に利用しているという可能性もあるにはあるが、そんなことはこっちは分からないし、使っていようといまいとグループに入っていない第三者にとってはどうでもいいことである。この宇宙に存在しないも同然だ。存在しないものを「ある」かのように扱ったり気にするのは、一種の宗教みたいなものであり、人によっては無用な強迫観念とか心配に襲われる。

正直、他の多くの人も同じだと思うが、高校や大学時代の友達つきあいなんて、冷静に考えたら数年のことでしかない。僕は大阪教育大学教育学部の附属小学校から附属高校まで12年間も同級生だった人々が何十人といるけれど、もうすでにいまの会社の同僚の方が付き合いは長かったりする。特に高校時代の同級生と言っても、そもそも何人かは既に亡くなっているし、たいていの人にとっては3年だけの付き合いだし、そこまでなにか重大な体験とか人間関係であるかのように思う必要なんて実はないだろう。はっきり言って、その程度の短い経験を重大事であるかのように思い込むのは、漫画や小説の読みすぎだと思う。僕は、確かにいまでも友人と言える人物が二人ほどいるけれど、彼らですらほとんど年賀状をやりとりするくらいの付き合いだ。

それに、Facebook に投稿されている「投稿」のほとんどが、ヘッダー画像を設定しましただの、プロフィールの写真をアップロードしましただの、要するにシステムが自動で投稿するあれだ。本人がタイプして何か文章を公表しているわけでもない。あるいは、わずかに自分で写真を投稿してから文章を書いている場合でも、コメントのやりとりを何回かして、それで再び5年ほど何もなしである。使っていないのだ。もちろん、それだけで「もう同級生も、おっさんやおばはんになってリテラシーも意欲もないのだろう」と考えるのは気の毒なことであろう。でも、そういうサービスとかリテラシー以前に、公で何かを語るとか問うとか訴えるとか、そんなことをする気はないということは分かる。それを誰が責められるものでもあるまい。50を過ぎたくらいで、縁側で猫を抱いてるような老人となったわけでもないと思うし、何事かに意欲的に取り組んでいる人でも、ネットで何もアピールしたり報告もしないという人は多い。そして、僕はそれでいいと思う。なんで「シェア」なんてする必要があるのか。

たとえば、黙って地域社会で子供や老人や障碍者や病人の世話をしつつ生活していて、それで何の不足があろう。それをわざわざ「なになに市で福祉のために働いています」なんて Twitter で報告し続けるなんて、昔ならそれこそ「売名行為」と蔑まれたものを、最近では「シェア」などと言って暇な連中が「感動」することに貢献する善行であるかのように扱われている。もちろん、SNS やソーシャル・メディアへの投稿の多くが売名行為でないことは分かっているけれど、シェアなんて言ったところで、それは社会人として当然の責任でもなければ、社会正義でもなく、ましてや世の中が〈良く〉なるために必要なことでもないのだ。

よって、Facebook で同級生の様子を見るのは止めると言っても、別に彼らが〈何もしていない〉などと思っているわけではないし、Facebook でのプレゼンスなんてどうでもいいと思う。だから、どうでもいいことに年に1回でも注意を払ったり時間を使うのは、僕にとっても人生の浪費に過ぎない。

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