Scribble at 2024-08-19 19:04:09 Last modified: 2024-08-20 11:22:20

『論語』を丁寧に読むにあたって、二つの分野を参考にしている。一つは、もちろん日本で教えられている「漢文」であり、もう一つは中国語だ。いま読める中国語の語学テキストは、もちろん古代の中国語とは対象が異なるので、鵜呑みにできないことも多いとは思うのだが、そもそも『論語』は中国語で書かれている文献であり、漢文(それも読み下し文)で書かれた文章ではないのだから、やはり中国語の語順やリズムでなるべく理解したいと思う。

とは言え、古代中国語の知識まで習得して読むべきだとは思っていない。われわれ哲学者の使命は自ら考えて素養なり見識を得たり高めることにあり、しょせんは読書にすぎないこういう作業に(哲学的な要求の水準から言って)必要以上の時間や労力、そしてお金を費やすべきではないからだ。そういうものを、単純に必要というだけでいくらでも費やせるし費やさなくてはいけないなどと考えるのは、単なる強迫観念であって、観念に自らの哲学的な使命を左右されている、僕に言わせれば「素人」だ。言い方を替えるなら、そうする時間やお金がいくらでもあるという前提でものごとを判断している、ただのスノッブや成金小僧とも言って良い。大昔は貴族や坊主しか学問できなかったのだから、僕に言わせれば倫理の教科書に掲載されている過去の「思想家」や「哲学者」の半分くらいは無能でも著作や成果は残せたわけだが、現代の大多数の学術研究者は、僕も含めて凡人である。お金もなければ才能があるとも限らない、酷い場合は授業のノートを作ったり本を書くためだけに論文を読んでいるような無能や恥知らずも多い。

さて、そういうわけで中国語はともかく漢文としての読み方については、なるべく日本で確立している知恵を得たいと思うので、それこそ高校の漢文のテキストから一般向けの本までいくつか参考にしようとしている。さきほども書店で何冊かの本を眺めていたのだが、まず、前野直彬氏の『精講 漢文』(ちくま学芸文庫、2018)は必要ないと思う。理由は簡単で、殆ど漢文の文法について書いていないからだ。このところ、ちくま学芸文庫は人文・社会・自然系のそれぞれで大昔の高校の参考書を続々と復刊していて、もちろん中には面白い本も多いのだが、これについてはダメだと思う。そもそも650ページほどある本の半分は古典の読解に割り当てられていて、前半でも文法については30ページほどが割かれているにすぎず、それ以外は雑学の類である。老人が味わうような本としては良いかもしれないが、漢文を読んで成果を出さなくてはいけない者にとっては、はっきり言ってこんな本を読むのは時間の無駄である。Z会のハンディな『漢文 句形とキーワード』でも読むほうがマシである。

それから、書店で簡単に眺めて買おうかと思っていた、西田太一郎氏の『漢文の語法』(角川ソフィア文庫、2023)も、あらためて数分ほどじっくり眺めた印象としては、漢文の参考書としては失礼ながら「落第」である。これも理由は簡単で、文法を殆ど解説していないからだ。こちらも700ページを超える本だというのに、その大半は大量の漢文を並べながら、それらの語釈だけを追加しているにすぎず、どうしてそういう読み方ができるのかという文法的な解説が全く書かれていない。というか、漢文の基本的な句法すら十分に説明されておらず、これも何度か通読しているうちに慣れるという、「読書百遍でしか理解できないように書かれている欠陥品」でしかないと思う。

何か、あたまの空っぽな懐古趣味の人々というのは、まるで「読書百遍」が正しい勉強のプロセスであるかのように思い込んでいるところがあるのだが、それは僕に言わせれば解説、それから出版物としての編集や構成が未熟であるというだけのことでしかない。これは僕が straightforward であることを良しとする分析哲学の伝統を共有しているからだとは思うが、決して十分あるいは完全な明快さや正確さというものは到達できないであろうし保証もできないであろうが、しかしそこを目指す努力は必要であり、そのために愚劣な造語や未熟な文章構成には批判的でなくてはいけないと思っている。これを、この国のバカな編集者や無能なプロパーは短絡して通俗化だとしか理解しないからこそ、いわば「厳格な分かり易さ」とか「正確だが平易な表現」という、一見すると矛盾しているようなコンセプトに思い足らず、分かり易さや平易さと言えば、そういうバカどもはすぐにビキニ・アーマーを着た幼女のイラストでウェーブレットや超準解析や環境考古学や科学哲学を解説するということしか思いつかないわけである。

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