Scribble at 2024-08-20 09:46:18 Last modified: 2024-08-20 11:18:48
教育や保育、あるいは病院でも同じだと思うが、特定の職業や職域には独特の判断基準や社会的な評価があって、場合によっては法律すら当てはめることが難しいか、あるいは通常の法令を当てはめることに違和感を持つ人がいたりするらしい。その典型の一つは、おそらく学校などの「いじめ」であろう。いまでは、社会人が会社で遭遇する場合もあるようだが、それですら学校での「いじめ」の延長で理解されていて、ここ数年は「ハラスメント」という別の流行語のせいで、再び法令としての理解からズレていて、僕はどうも奇妙な印象を受ける。まるで、どうあっても「犯罪」として理解したくない、事を荒立てたくない、この国が実は軽微な範囲で言えば法令を軽視するような人間の国家や民族であると思いたくないという、いわば「民族的保身」と言っていいような心理があるのかと思ってしまう。
ともかく、歴史という経緯から考えて明らかなように、公教育を担う学校制度は近代以降の単なる文化政策・文化制度の一つであり、人の社会にとって必須である証拠もなければ最善である証明もない。したがって、そこで起きていることの全ては歴史的・文化的な事柄であって、それゆえ或る種の制度なり文化をもつ国においては特殊な役割や意味をもつと見做される。日本においては、長らく学校や病院は「聖域」などと呼ばれてきて、その末に、僕に言わせれば単なる未成年による犯罪を「いじめ」という特殊な現象であるかのように見做す人々がいて、それはつまり教育的に対処するべき現象であるとの錯覚を引き起こす。しかし、それは単なる錯覚である。「いじめ」などという特殊な現象はもともとなく、それは小学生や中学生による同級生への違法行為であり、ただの少年犯罪でしかない。
そもそも、学校教員にこういう少年犯罪を予防したり矯正したり対処する法的な権限もなければ、その能力もないのである。教員免許を取得するために、たとえ制度として児童心理学や犯罪心理学が必修であったとしてもだ。なぜなら、犯罪を予防する力は、そもそも裁判官や警察官にすらないからだ。人に、そんな能力はないのである。だからこそ、法令による一般予防効果で牽制したり、あるいは起きてしまった後に刑罰としての特別予防効果で反省させる他にないのである。それらはどちらであろうと制度的な対処であって、個々の教員や親や警察官に何かができるという前提の制度ではないのだ。
ここからすぐに分かるとおり、もし皆さんの子供が学校で「いじめ」に遭っていると思われる場合は、証拠があろうとなかろうと子供を学校から引き離し、子供を転校させるか、あるいは転校した後も元の学校の子供らと同じ生活圏にいることが危険なら、可能な限り転居することが望ましい。そういう、危険な人間関係を断つことは、古来より人の防衛本能として正当な行為であろう。その場合、学校を説得する必要などない。教師には実情などたいてい分からず、たいていの教師なんて保身が第一のサラリーマンにすぎないのであるから、子供が死んでから教育委員会の暇な老人どもと一緒に無駄な時間をかけて調べ始めたり、地方テレビ局のカメラの前で頭を下げるのが関の山だ。自分の子供が被害を負ってからでは遅いのである。僕は学校であれ病院であれ、その程度にしか信用してはいけないと思う。
それから、このような対策を「逃げる」などと平気で言う者がいて、特に口先だけのインチキ右翼に多いのだが、明治時代に創作されただけの武士道みたいなインチキ観念と勘違いしているようだが、こういう口先だけの精神論を振り回す愚か者どもの言うことも聞く必要はない。逃げることは危険から身を守るための本能であり、そもそも生物として正しい判断や行動である。逃げてはいけないことと逃げるべきことの判断を間違える者こそ愚者と言うべきであり、馬鹿のくせに人並みの認知能力をもつがゆえに、出鱈目なことを言っているにすぎない。
もし、あなたが子どもと一緒に「逃げる」ことなく応じるというのであれば、子供にその境遇を押し付けるだけではなく、あなたがた親も一緒に戦わなくてはいけない。簡単に言えば、子供に恐喝や暴行をはたらく同級生に保護者として立ち向かう(もちろん暴力も含めてだから、相手の親とも争う場合があろう)ことも辞さないくらいの準備や覚悟が必要である。もちろん逮捕されたり裁判で負ける可能性だってある。それこそ、口先だけの右翼どもには(他人どころか自分の子どものためにすら)できないであろう覚悟が求められる。そして、もちろん僕はそういうことをお勧めしない。