Scribble at 2025-10-18 20:01:00 Last modified: 2025-10-19 17:55:29

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そんなこんなで、ただいまのところ、

・『岩波国語辞典』(第7版、新版、2011)

・『角川必携国語辞典』(1995)

・『明鏡国語辞典』(2002)

という三冊を手元に置いている。どれも10年以上も前の辞書であり、角川に至っては30年も前の辞書だが、それから改訂版が全く出ていないのに、いまでも書店に堂々と配架されているのが品質を証明しているのだろう。それに比べて、昨今の国語辞典に採用されている以下のような傾向を見ると、あまり最新の辞書と言えども手にする必要を感じない。

・見出し文字の下にある漢字表記をどういうわけか小さく印刷する

・本文も含めて非常に細くて薄い明朝体を使う

・効果的とは思えない多色刷り

・安易な新語、俗語、ビジネス語の収録

特に、老眼鏡を常用する立場となって、辞書のデザインが四十代以下を想定していることがわかり、これでは中年以降の者が辞書を使ってまで何かを学んだり本を読む気が起きないのも当然だろうと思う。こういう点についても、やはり日本の出版業界は自滅的なことをやっている。アマゾンやラノベのせいなどではない。

とは言うものの、実際には頻繁に国語辞典を手に取るかと言えば、そういうわけでもない。誰しも生活の中では自分でよく分かっている言葉を使うだけなのだから、わざわざ調べなければわからないような言葉を使う人がいたり、あるいは小説や映画などで見知らぬ発音の言葉が出たときに、ようやく手を伸ばすのがせいぜいだ。ましてや、僕らは小説家や印刷会社の人間ではないのだから、新しく語彙を増やす動機も必要もない。正直に言えば、これだけあれやこれやと議論しながら辞書を集めているにもかかわらず、実際には辞書を引く機会なんて一ヶ月に一度すらないであろう。

だが、せっかく集めたのだし、何らかの新しい習慣を作って辞書を活用する機会があっても良いはずだ。もちろん学歴がある人間の暇潰しに見えるかもしれないが、誰でもやろうと思えばやれるし、スノッブの遊びでもなく、誰にとっても有効であれば、あとはやるかやらないかという事情や意欲の問題にすぎない。単に貧乏だから学ぶ意欲がないというのは、実際に貧乏どころか生きるのにも苦難がともなう、それこそ多くの国々で学ぶ人たちを愚弄する甘えであろうと思う。これ、昭和の精神論かね? ぶっちゃけ、この程度の方針に沿って実行し、それを凌駕する成果すら残せない者が、PC だパワハラだ多様性だ昭和だ精神論だと言う資格はないと思うね。僕が言っているのは、昭和の精神論なんていう凡人の痩せ我慢を粉砕するレベルの話なのだ。そして、やろうと思えば誰でも凡人の精神論なんて超えられるのである。僕は何も、誰もがあらゆることがらについて凡庸な成果しか残せないなどとは言っていない。誰でも、やろうと思えば凡庸でない結果を残せるわけであり、そこで足を踏み出すかどうかは、諸君が凡人であるかどうかとは関係がないのである。

とかなんとか言っていても、別に国語辞典を眺めながら血反吐を吐くような修練をせよなどと提案したいわけではない。僕が提案するのは、もっと簡単なことであり、考えようによっては楽しいことでもある。それは、手元の国語辞典を最初のページから1日に1ページだけ眺めて、知らない言葉があったり、これまであやふやな理解だった言葉があれば、それを小型のノートなりメモ帳へ書き写すことだ。これを繰り返して、自分なりの book of shame を作るわけである。この book of shame は、「英語の勉強について」という当サイトの論説で、松本亨さんの逸話としてご紹介したことがある。松本さんによれば、book of shame に書き溜めた語句はしっかり身に着けて、二度と学び直すことがないようにするためのツールなのだが、僕はこういう "shame" は死ぬまで抱えていてもいいと思う。寧ろ、自分はこういう言葉を知らない、こういう語句を間違って使うことがあるというリスクを、しっかり記録にとどめて、何度も読み返す機会を作ることが望ましい。

これは、僕が情報セキュリティの実務家として20年の経験から得ている教訓のようなものだ。たいていの凡人なんて、僕らが研修したり注意するていどで、一度にその目的や理由や議論の要点を理解するはずがないのだ。もちろん、その最も多い理由は意欲も動機も能力も知識も欠けているからなのだろうけど、それゆえに諦めてはマネジメントなんてやれない。本当に何の意欲も責任感もないなら、最初から当社の社員として採用しなければいいし、さっさと首を切ってしまう方がよい。だが、どこの組織であろうと有能で善良な人間ばかりがいるなんてことはない。大多数は、もちろん凡庸なのであるから、何事かを教えたりきっかけを作らないと、勝手に学んだりしないし知ろうともしないのは当然である。それは、その必要性を納得させることに失敗した我々の責任でもあろう。そういうわけで、説得して何かを促せるという前提がない限り、マネジメントや啓発活動なんて無意味でしかない。つまり、われわれが会社の部長として研修したり、科学哲学者として啓発活動しているのは、凡庸な人々が馬鹿だと思っているからでもなければ、我々が手を差し伸べないといけない無能だと思っているからでもない。単に手順やきっかけという実務の情報を知らないとか、あるいはどうしてそれをやる必要があるのかを自分で納得していないからなのである。そして、それは必要だと思っている人間の方が、適切に研修したり教科書を書いたりして相手に考えてもらい、実行してもらうまでの責任があるのだ。いったん相手が納得して学んだことは、必要に応じて自ら注意し続けないといけない。10年が経過したからセキュリティソフトを使わなくてもよいとか、会社に入って5年も働いたから個人情報を適当に扱ってもいいなんてことはないのだ。それと同じで、或る語句を book of shame に書き留めて5年が経過したから、あとの人生で言葉の誤用はないだろうと思うのは危険である。

ともあれ、他人に勧めるだけでは説得力がないだろうから、僕は本日から『角川必携国語辞典』を1日に5ページだけ眺めて、(1) 知らなかった語句、(2) 理解が不正確だった語句、(3) 漢字表記や送り仮名に注意したい語句、といった条件でメモ帳に書き溜めていっている。

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