Scribble at 2024-05-31 21:44:26 Last modified: unmodified
いま、たまたま蔵書の棚卸しをしていて、森岡正博氏の『生命学への招待』(勁草書房、1988)を手に取っているのだが、彼が「数十年」の単位で予想あるいは期待した、アカデミズムとは別のコミュニティというのは、結局のところなんなんだろうという気がする。
僕らは、まさしくその「数十年」後の現在にあって、この著作を眺めているわけなので、彼が待ち望んだらしきコミュニティが成立しなかったことを知っている。というか、僕は、そんな「フランスの街角にあるカフェで哲学や政治を語る意識高い系の人々」的な妄想でしかない、はっきり言えばマンガ的としか言いようがないコミュニティは成立しえないと思うし、成立すべきでもないと思う。アカデミズムとは別のところで人々が議論するコミュニティなんて、そんなものに近い何かがあるとしても、せいぜい、2ちゃんねるの哲学板か、あるいはマスコミに囲い込まれた「独立研究者」とかいう文化芸人どものカジュアルな哲学イベントくらいのものだろう。あるいは、「フランスでは高校生が哲学を勉強している」などという針小棒大な話を振り回して、どちらかと言えば高校生に訴えるのではなく、「大人の復習」系の通俗参考書を読み漁っているような、都内の上場企業に勤める学歴コンプレックス丸出しの暇なサラリーマンとかに訴えているわけだ。
要するに、森岡さんには気の毒だが、そんなコミュニティが醸成されるような下地は、彼が東大を出た時点ですら存在していなかったのである。仮にそんなものがあったとしても、それはしょせん本郷や湯島界隈の「偏差値80の一般人」だけに見て取れるような話なのである。
もちろん、こういうことを書いているからといって人々をバカにしているわけではない。それは、MD でも「凡人」という言葉を侮蔑語として使っていないと言っている理由と同じく、凡庸な人々の思考や習慣を無視して社会科学や政治や行政や事業なんて成立しないし、同じく哲学や思想にかかわることもできないからだ。しかし、僕はバブル経済に絡め取られていたセゾン系の文化人とは次元の違う人類史スケールの保守を任じている哲学者なので、「凡人」を美化しただけの「大衆」などというものに期待もしていないし、社会科学的あるいは社会思想的な拠り所を置いたりもしない。バカはもちろんバカだし、凡庸な人は凡庸でしかない。そういう、バカにするでもなく美化するでもない、あるいはデザイン思考的な、できもしない俯瞰的な視野からパターナリズムだけで世の中を語るようなクズ官僚でもない、それこそ哲学者としての視点をもつべきなのである。