2022年03月25日に初出の投稿

Last modified: 2022-03-25

国内外を問わず、科学哲学のテキストでお馴染みの構成として、或るテーマを設定して通史を叙述するという手法がある。ただ、そこで選ばれるテーマの多くは、要するに論理的経験主義の時代に theme-setting された、いわばお定まりのテーマとか論点である。つまり、説明理論とか、理論と観察の二分法とか、意味の検証理論とか、反証可能性と理論交替などなどである。これらは received view を出発点として「オーソドックス」な通史を意図しているようだが、実のところ theme-setting について殆ど不問であるとか、あるいは最後の章で theme-setting そのものに疑問を呈するという卓袱台返しをやるという点で、多くの読者にとっては後から振り返ると時間の浪費だったという印象を与えてしまうリスクがある。

しかしながら、これを逆の theme-setting から叙述しなおす手法、つまりフェミニズムとか STS とか文化人類学とか、果ては戦前から続く外交・軍略史の文脈でとらえることすらあるが、これらは多くの場合に「一面的」だとか「イデオロギー優先」といった非難を浴びるか、些末な事実だけを storytelling という動機にもとづく先入観に沿って繋ぎ合わせた陰謀論と同列に無視される傾向もある。概して、哲学のプロパーというものは、哲学の通史をとらえられるのは哲学だけであるという自己正当化を根拠もなく尊ぶ傾向にあり、人文・社会科学や生物学や認知科学といった〈下っ端〉ないしは〈哲学の娘たち〉の観点では不十分にしか哲学史をとらえられないと考えたがるものだ。もちろん、知識の体系に関するホーリズムにコミットしている僕はそうした「次元の違い」とか「学問としての格」といった、実は哲学的に言って殆ど根拠のない薄弱な権威は信じていないので、〈親〉を自称するふざけた連中に頭を押さえつけられている諸科学が偽の権威を粉砕する力を信じる。そして、その力もまたパスカルが言うように「哲学」と呼ばれるようなものなのだろう。しかし、そうは言っても現実には残念ながら多くの哲学プロパーが思っているように、後知恵で叙述される通史の大半が彼らの思っているとおりのガラクタみたいな文章であることは一つの悲劇であろう。

よって、古来から(特にサポートしてくれる指導者や同学の士がいない独学の)素人の受けは悪いが、「無味乾燥」で粛々と事実を並べ立てる叙述の方が、却って知的誠実さや客観性(これらが他の尺度よりも優先されるとしての話だが)を維持している場合もある。ただ、特定の脈絡をリードしていないために、独学の者が読むと自分の偏見や先入観に都合の良い storytelling に沿った事項だけを摘みあげられてしまう欠点がある。かといって、そうした記述に含まれれる全ての事項を「体系的」に一貫した像として描いたりリードしようとすることは、簡単に言えば歴史についての叙述として間違っていると思う。これは、考古学や歴史学の素養もなしに通「史」を書こうとする素人がいかに哲学教員に多いかを物語っている。

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