Scribble at 2024-09-15 13:03:51 Last modified: unmodified

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もう学歴社会がどうのとか東大偏重がどうとかいう議論というか話題って、もちろん僕らが高校生の頃には週刊誌や新聞の「鉄板」と言えるような茶飲み話のネタと化していて、誰も深刻に考えたり真剣に何かすべきだとは思っていないのに、マスコミや学者や物書きとして悩んで見せるという文化パフォーマンスを演じる愚劣な連中がたくさんいたわけだよ。そして、さきほど『東洋経済オンライン』を眺めていると、それこそ最初に出てくる記事が「『高校ずっと1位』でも"東大不合格"彼が抱く未練」だとか、「なぜ東大を頂点とする大学序列が固定されたのか」といった、相変わらずの茶飲み話だし、広告にも東大教授が教える教養セミナーみたいなものが掲載されている。要するに、広告・報道・出版という業界の人間こそが、こういう擬似社会問題を自作自演しているのだというのが、正常な思考力を持つ大人の理解というものであろう。したがって、まともな大人というのは誰もこういう話題にとりあわないし、眼の前の取引先の部長や銀行の投資部の若造が東大卒をひけらかしていようと、大して気にはならない。東大は勉強ができる者が入れる大学であり、そういう大学を出ている者は優良企業へ就職できる。別に、こんなことを疑ったり否定したところで意味がないからだ。

人には色々な能力があるし、その能力には段階なりグレードというものがある。勉強したり練習して身についたり向上する能力もあるが、中には生得的な能力というものがあって、たとえば絶対音感とか計算能力とか、練習だけでどうにかなるレベルを遥かに超えた能力を子供の頃から何の訓練もなしに身につけている人もいる。いわゆる "gifted" と呼ばれる人々だ。ただし、潜在的な能力があっても伸ばす努力をしないと成長するに従って能力の向上が止まってしまう場合もあるし、自分自身や親などが能力を見出さないままで終わってしまう人もいる。なので、誰であろうと何らかの能力があるという可能性はあるが、それは端的に言って自分自身で見つけるか、たまたま見つかるわけでもなければ、可能性だけで「世界に一つだけの花」みたいなファンタジーを語っても無意味である。人の評価というものは、外見から仕事、いや人間性であろうと、その人が何をしたかという結果が全てだからだ。連続強盗殺人で収監されている死刑囚にも数学や経営の才能があるかもしれないなどといって、刑の執行をやめて数学の勉強をさせたりアメリカの大学で MBA を取得する手伝いを国家がするか・・・なんてありえないだろう。

もちろん、僕が「凡人」と言う場合には、こういう可能性がゼロではないという前提で言葉を使っているので、みなさんのような凡人でも僕と同等のプログラミングの才能があるかもしれないし、僕と同じ程度にデザインする才能だってあるかもしれないし、もちろん僕と同じていどの学歴を積み上げられるかもしれない。そういう可能性はある。でも、それは自分で何ができるかを見つけたり、あるいは実際に学ぶなり努力するなりして結果を出さなければ誰も評価したり認めたりサポートしようとは思ってくれない。やはり、「明日から本気出す」と言っているだけでは誰も信じないのであって、僕が好きな名言でもある「やるなら、いまでしょ!」しか結果を出す方法はないのだ。

つまり、いつまでたっても日本のマスコミや出版業界が「東大を出たからどうだというのか」という成果で評価しない態度を続ける理由は、僕に言わせれば簡単である。それは彼ら自身が「東大出身者」の成果を自立した観点で評価するだけの見識がないからだ。そして、そういう見識をもつには、彼ら自身が「東大を出ていないといけない」という自縄自縛に陥っているのである。そんな連中が、ことほどさように深刻ぶって学歴社会がどうだと記事を書いたり議論してみせたところで、しょせんは暇潰しの「庶民ごっこ」にすぎないのである。自ら勉強して自立した見識を得ようともしないで、ひたすら「庶民」という何のポジションに身を置いていれば、一生でも「学歴社会の歪み」とやらをネタに飯が食えるというわけだ。

若い諸君は、こういうバカどもの書く文章を真面目に読んではいけないし、彼らが討論番組などで深刻ぶって話していても、決して真面目に取り合ってはいけない。彼らは「弱者」や「庶民」というポジショニングに安住したいだけの思想的・社会科学的なマゾヒストなのである。

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