Scribble at 2024-07-02 07:43:37 Last modified: unmodified
「横のものを縦にする」という侮蔑表現はあるけれど、長い期間に渡って適度に一貫したスタンスと品質を保ちながら続けること自体は、やはり一定の賞賛に値すると思う。こういう活動が個人の資質や時間あるいは経済的な余裕に任せた、刹那的かつ趣味的な活動に終わってしまいがちだと見做されるのは、実は彼ら自身のやっていることに原因があるというよりも、つまりは彼らと同じようなことをする人が少なくて、第一に「こういう活動」が一つの生活スタイルとして多くの人々に共有されず、しかるに競争が起きずに全体のレベルが上がりにくいので、学術としても一般向けの活動としても比較ができずに個別の成果で判断されてしまうからだと思う。もちろん、こういうことの正確で妥当な分析も、本来は経済学者や社会学者がやるべき作業であって、なんで科学哲学者がブログ記事の社会的効用なんて話題をしなくてはいけないのかという気もするが、ひとまず個人としての興味から言っておきたい。
簡単に言えば、彼らの活動にはそれぞれ賞賛に値するだけの長期に渡る成果があると言ってよいと思うのだが、日本の現状から言えば、やはりその影響や効用は「趣味的」な範囲に留まると言わざるを得ない。僕がしばしば使っている「ゼロ演算(ゼロの足し算やゼロの掛け算)」とまではいかなくても、その社会的な効果は、必ずしも彼らが意図する人々に届いているとは限らないという意味で「限定的」だと思うし、長期的な影響も社会科学的な誤差の範囲に留まると思う。なぜなら、別に彼らの記事があろうとなかろうと洋書を読む人(あるいは海外のオンライン・リソースを参照する人)の数が減ったり増えたりするわけではないからだ。たとえば、彼ら「横のものを縦にする人々」の記事を読んだことがきっかけとなり、英語の本が読みたくなって英語の勉強に励んだり外国語学校で習得に励むような人が現れた証拠など一つとしてないし、洋書を読む人は彼らのブログがあろうとなかろうと勝手に自分自身の必要や事情や動機や目標に応じて英語を習得して読むようになるわけで、こうしたブログが宇宙に存在していようといなかろうと関係がないのである。
しかしそれでも、彼らのブログに比べたらはるかにアクセス数の少ない当サイトですらコンテンツを公開し続ける意義がどこかにあろうと期待したり望んでいたりするという事実で示されるように、人はそんなことだけで自分のやっていることの是非を判断したりはしない。なぜなら、そもそもそれは元から誰に頼まれたわけでもない「趣味的」なことだからだ。僕が情報セキュリティや科学哲学や企業経営などについて書いているのは、何も誰かに読んでもらったり知ってもらうためだけではない。自分自身の考え方をまとめて、公のリソースとして自分自身が他の場所やマシンからでもアクセスできるようにしてあるというだけの事情でしかない場合もある。ウェブ・ページなら、ローカル・マシンにテキスト・ファイルとして保存しておくよりも、色々なデバイスからアクセスして読めるし、自分のマシンですらない他人のマシンやホテルの端末からでも読めるからだ。それは、同時に他人から言っても手軽に読めるということになるのだが、僕のようなナルシストの場合は、自分の書いた文章の出来栄えを、他人が読んでいるかどうかに関わりなく、山奥の一軒家で自分が制作している彫刻の出来栄えを眺めるように読んでいる場合も多い。したがって、ウェブ・ページなりブログ記事というものは、少なくとも僕に限って言えば、他人が読んでいようといなかろうと、その事実だけで書かれている内容の価値が変わるようなものではないのである。