Scribble at 2020-07-23 10:35:31 Last modified: 2020-07-25 13:03:44

昔から経営書やビジネス書と呼ばれる読み物の雑な議論にはウンザリしていて、そもそも経営学という学問自体のメソッドについても社会学に毛が生えたていどのものでしかあるまいと思っている。つまり、ただの知り合いとか好みの経営者にインタビューしたり、どういうバイアスがあるのかもわからない基準でデータを漫然と集めたりという情実的に積み重ねた資料から、もともと自分が思っている偏見を「理論」とやらに仕立て上げているだけではないのかという話だ。それゆえ、経営学で最も売れている本は、経営学の数々の通説を総攬する《まとめ本》だったり、経営学の数々の通説をこき下ろす《逆張り本》だったり、これまでの経営理論を刷新すると称して毎年のようにダイヤモンドや翔泳社や日経BPなどから翻訳が出てくる「現代の古典w」だったり、あるいは学生に受けがいいという身体障碍者の講師や美しい女性講師の講義録をまとめた本だったりする。まったく、アイビーリーグの経営学部には文化芸人や無能しかいないのか。こんな調子なので、経営学や経営書の動向を眺めては、これまた数年ごとに「経営学など役に立たない」と豪語する通俗本もたくさん出てくる。いわば、この手の安っぽいマウンティングをひたすら繰り返しているのが、アメリカを初めとする各国の経営学の実情だろう。

なので、いま多くの経営書でやたらと推奨されたり支持されているスローガンや理屈にも、そのうちカウンターが起きるのは必至だ。たとえば、多くの人々がこぞって叫んでいるスローガンの一つに「たくさん失敗せよ」というものがある。これは色々な脈絡で(雑に)議論されているし、昔から怪しい議論として、「失敗したことがないガラスのハートをもつ天才は、ひとたび失敗すると回復するのが難しい。ゆえに神童が天才のまま大人になるまで業績を上げ続けることはできないのであり、10歳でハーヴァード大学に入った子供の多くは20歳を越えると大して業績を残していない」云々といった、これ自体が何の具体的な追跡調査も参照していない偏見として普及していたりする。また、数々のベンチャー企業の歩みをたどっては、たいていの会社は間違いを犯しつつ事業を改善したり、あるいは全く違う発想に切り替えたりして成功していると言っては、失敗なくして成功なしだの、失敗は成功の元だのという安っぽいフレーズを振り回す。

しかし、これらはすべて単なる生存者バイアスの事例に過ぎない。大半の個人や事業者は、一度の失敗で個人の資産を使い果たしたり、家族をはじめとする交友関係の信頼を失って、要するに「セカンド・チャンス」などないまま終わる。一例として、ウェブ制作業界の個人事業主について実態を見てみれば、そんなことは誰でもすぐに調べられるし、わかるはずだ。脱サラしてフリーランサーのプログラマやディレクターやデザイナーとなった人々の大半は、数年もすれば再び制作会社の社員となるか、廃業してウェブ制作の仕事から離れている。そして、せいぜい「クラウドワーカー」と称する、片手間の半端なブルーワーカーとして業界の実勢価格を引きずり落とす害悪となっているのだ。半端者が CentOS のセットアップを1万円で受注するのは勝手だが、なんで企業の受注見積もりまで1万円を基準にして高いだの安いだのとクライアントに値踏みされなくてはいけないのか。もちろん個人事業主にも、本来は販管費なり固定費という概念がなくてはならず、したがって1万円という価格設定は個人のレベルですら他の個人事業主に対する不当な競争になっているわけだが、クライアント側のサラリーマンなんて上場企業でも会社法や財務会計を知らないバカ揃いなのだから、正味の数字さえ小さければいいという話になる。こうして、立ち行かなくなって自滅するフリーランサーなどどうでもいいし、福祉でカバーするべき事案なのかどうかすら疑ってもいいくらいだが、ともかくたいていの事業というものは無能な凡人のやることでもあるがゆえに失敗し、そして二度とチャンスはやってこないのである。それゆえ、安易に失敗だのチャレンジを推奨するのは端的に言って無責任きわまりないことだ。

もちろんのこと、この対極にあるとも言える放射能ママみたいな「ゼロリスク」を追求するのも、同じくらい愚かな話である。我々が生きている宇宙には人類の原理的な知識を超える謎が無数にあるし、人類がつきとめたり制御しうる工学的なレベルの事柄にも正確な管理が難しい複雑な事象がたくさんある(その筆頭が、まさに経営学のテーマでもある人の管理だ)。完全な理解や予測や制御というものは、いまでもこれからも単なる観念の部類に属している(つまり人によって内容が違うし客観的な基準もないので、論理的な可能性や不可能性の範囲を決められない)。これを仮定したり、あるいは目標に据えることすら、実際には闇雲に何かを求めるだけの出鱈目な行為に他ならないし、仮に何か堅実な手続きをとるとしても、それが本当に目標とするところに寄与するのかどうかもわからない、せいぜい部分最適の些末な課題を解決しているにすぎないだろう。

いずれにしても、失敗することを無責任に推奨したり、失敗を完全に回避するための出鱈目な方針を求めたりすることは、結局のところ世界や社会や市場というものについての理解や想定に無理があり、もっと端的に言えばただの勉強不足や無知の結果でしかないと断言してよい。不勉強や無知無教養を「意見の違い」などという偽善者の処世術トークに回収し続けていては、いつまで経っても失敗をうまく回避したり失敗を減らすことはできないだろうし、それどころか起きてしまった失敗から何かを正しく学ぶことなどできないだろう。なんとなれば、その手の連中に甘やかされてイージーな失敗を繰り返すバカどもは、西海岸や都内のガキどもが安易で出鱈目なポートフォリオで起業を繰り返しているのを見ればわかるように、たいてい反省などしないからだ。

基本や原則に戻って考えてみよう。失敗が許されるのは、そもそも失敗を何度かやっても最終的に成功へたどり着けるという虫のいい保証があるかのような前提を置いているからだ。しかし、世の中の仕組みにそんな保証などありはしない。それゆえ、一度でも失敗した人々の多くは担保にできる資産や信用も失ってしまうので、二度と起業などできないのである。

では、会社の中で何かのプロジェクトを任される人々についてはどうか。確かに、どこかの会社のように何千万の投資額の大半を丸投げで開発してもらう外注のベンダーに注ぎ込み、肝心のビジネス・メソッドやサービス設計には素人の寄せ集めにすぎない社員のデタラメなブレインストームを徹夜で繰り返して満足するというバカげた手順で、ローンチから1年も経たずに殆ど何も回収できずにサービスを終了させるといった事例がある。このように、まだローンチしている場合はマシだが、シリコンバレーや都内に集まるゴロツキや学生起業家の事業は、その多くがマネタイズどころかローンチもできずに資金を使い果たして終わる。しかも、理論や技術で何かを残せば大企業に買収してもらえる exit もありうるが、残念ながらアイビーリーグの博士号を《もっているていどのこと》で、そんな新規で価値のある理論や技術を残せる人間なんて、もともと殆どいない。コンピュータ・サイエンスやネットワーク通信やシステム・エンジニアリングという分野は、1960年代のように一歩でも足を踏み出せばトップランナーになりえた牧歌的な時代など、とっくに過ぎ去っている。

たとえば JavaScript のライブラリである jQuery は2000年以降のプロジェクトとして普及度や知名度や実績という点で「成功」したと言って反対する人はいないだろう。しかし、jQuery がコンピュータ・サイエンスの理論や通信理論に果たした寄与というものを冷静に考えれば、それは「ゼロ」だと断言できる筈である(生産性の向上に寄与したという意味で、ソフトウェア・エンジニアリングには一定の寄与を果たしたと言いうるが、それでもそれは実地の応用として寄与したのであって、jQuery の設計思想に触発されたソフトウェア・エンジニアリングの理論的・原理的な革新など一つも起きてない)。

このように、失敗を推奨する気軽なスローガンには、失敗を《繰り返している》うちに成功へたどり着くという、ビジネスの現実ではありえない想定が隠れている。現実には、多くの人々は失敗を《繰り返す》ことなどできないし、それが一概に悪いことなのかと言えばそうとも言えないのである。およそ、社会の仕組みや資産を防衛するという現実的で保守的な態度を維持するのが人の集まりとして自然な傾向なのであれば、常に未知のリスク要因を招き入れたり、最適な対策がわからない未知の事業へ人々を駆り立てるという組織の運営方針は、それをリカバーできるという保証がなければ、単なる無責任であり、バンザイ突撃でしかない。やって誰かが失敗を犯し、組織全体に何か重大なインパクトを与える結果が生じたとして、それを管理者や運営者が全く対処できないとすれば、そういう組織は崩壊したり消滅する他になかろう。そして、今般の多くの事故や事件を見ればわかるように、いまや18歳の新入社員が入社1か月で会社の事業を立ち行かなくしてしまうほどの事故を起こしてしまえる(たとえばテレワークに際して、データベースのアクセス情報を Google Drive で一般公開の状態に置くとか)。それを、「新卒にもデータベース運用の仕事を任せてみよう」などとチャレンジすることが望ましいとして役職者が許可したのであれば、それはどう考えても許されない失敗を故意に招き入れた背任行為と言っていいだろう。しかし、許されるていどの失敗ならいいのかというと、何が許される失敗なのかという評価について、果たして組織なり企業なり自治体の役職者は、何らかの妥当な判断基準、そして評価に必要な情報と知識を持っているのか。そんなことはあるまい。すべての人間が(たとえ18歳でハーヴァード大学の数学教授になるような人間であろうと、100億桁の数の因数分解を1秒でやれるわけがないという意味でも)凡人でしかありえない以上、許されざる失敗を招き入れるリスクは常にある。こう言ってよければ、「やっているうちに成功する」という甘い発想は、たいていの場合に「やっているうちに回復不可能な失敗に至る」という事実によって凌駕されるのである。もちろん、試行錯誤を繰り返していられる環境を整備することは大切だ。そういう環境を整備できれば、人をいろいろなことにチャレンジさせられる。しかし、本当にそういう環境が《安全》なのかどうかは、保証することが難しい。科学の実験においても、昼夜を問わずに実験を繰り返して何かを発見したという話はたくさん残っているが、現実にはそれ以上の膨大な無駄があるわけで、成功した実験だけを見ていても甘い想定にしか行きつかないだろう。

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