Scribble at 2020-09-20 14:15:37 Last modified: 2020-09-20 14:18:27

Twitter ではお馴染みの話題だが、小学校の教員で「掛け算の順番」というものを熱心に教え込む人がいるという。例題を出そう。

「スーパーで5個入りの袋が一つ200円(税別)というミカンが売られている。母親から遣いを頼まれた麻生太郎君は、この袋を三つ買ってきてくれと言われて千円札を持たされた。さて、ミカンの袋を三つ買ってきた太郎君は、釣銭をどれだけ母親に渡したでしょうか。税率は、もちろん現行の消費税である10%です。」

もちろん、僕がどれほど算数や数学が不得意であっても、「1000 - ( (200 x 3) x 1.1 ) = 340」くらいの計算はできる。いちおう、そろばんは3級くらいまでは学んだ筈である(自分が使ってたそろばんに級位を示すステッカーを貼り付けていた)。そして、恐らく財務大臣をやっている麻生太郎君もこれくらいの計算はできるだろう。

さて、ここで式だけを考えると次のように書き替えられる。

「1000 - ( (200 x 3) x 1.1 ) = 340」

「1000 - 1.1 x ( (200 x 3) ) = 340」

「1000 - ( (3 x 200) x 1.1 ) = 340」

「1000 - ( 1.1 x (3 x 200) ) = 340」

これらは全て数学としては「同じ」だろう。左辺は、幾つかの項の順番がそれぞれ違っているけれど、結局は右辺に示す「同じ数」を表しているからだ。しかし、一部の小学校では上に四つ並べた式のうちで上から二番目、三番目、四番目の式を書くと間違いであるらしい。その理由は、もちろん文科省の指導要領で決められているわけでもない、小学校の教師が勝手に思い込んでいる《算数理論》であるらしいので(ちなみに日本の小学校の教員で数学の博士号を持っているのは10,000人に1人もいないし、それどころか小学校の教員は大学の教育学部などで数学だけを専門に学んでいるわけではないから、実質的に代ゼミの予備校生と大して数学の実力は変わらないと言ってよい)、学術的な根拠など微塵もないわけだが、とにかく言い分の幾つかは次のようになっているらしい。いわく、「思考の流れや数値の時系列上の変化を記述するのが式である」ということだ。買い物へ行った太郎君は最初に1,000円札を手に持っていた。そして、スーパーで買い物をして「一袋200円のミカンを3袋」(200 x 3)買った。そして、それに対してレジでは10%の消費税がかかったため、最初に持っていた所持金からは660円が差し引かれて、釣り銭として母親へ手渡すのは340円というわけである。この経緯や推移を記述するのが「式」というものであり、よって他の書き方は「式」ではなく数学的には同値でも算数的には「間違い」というわけである。

もちろん、多くの数学プロパーはこういう《算数理論》を非難したり冷笑しているようだ。そして、その根拠としては、大別すると二つになっている。一つは交換則のような演算の規則性に訴えて「決まった順番」という発想がおかしいというもので、もう一つは式が物事の推移を記述するものだという発想がおかしいというものだ。僕がこれらの議論について持っている感想としては、まず小学校の教員は数学者でもなければ、学校教育としての数学というレベルの教員ですらないのだから(高校の教員は、まずこんな「掛け算の正しい順番」なんてことは言わない)、もちろん差別しているわけではないが、彼らには彼らが納得しやすい説明の仕方を工夫する必要があると思う。彼らもしょせん僕らと同じく聖人君子ではありえず凡人であるからには、数学どころか学校教育としての算数というものに(教育方法論としての)十全な知識や経験をもっているとは限らないし、そもそも教育学や教育方法論という分野そのものが心理学にも及ばないレベルの単純な経験談の寄せ集めに等しい、人文・社会「科学」を名乗るどころか学問と言ってよいかどうかすら怪しい(もちろん、それは哲学にも言えるわけだが、哲学の場合は明確に敢えてそうしている・・・という自覚のあるプロパーがいったいどれほどいるかは疑問だが)わけなので、相手の事情なり実情を考えると、前者のように数学の交換則を押し当てて「同値」という概念を振り回すだけではだめだと思う。

式において項の並び順というものは、確かに交換則を前提にすれば、はっきり言って「どうでもいい」というのが真理であろう。結局、それが式(あるいは方程式についても同じことだが)である以上は、計算結果を導くための必要十分条件が満たされていれば、それは一つの数を表しているのであり、式としてどれほど複雑な記号や数が入り組んで《書かれて》いようと、全体として一つの決まった数を表しているということに違いはない。「1 + 1 + 2 + 8 + 0.5 + 1.5」と表していようと、「8 + 1 + 1.5 + 2 + 0.5 + 1」と表していようと、「10 + 2 + 2」と表していようと、あるいは「x + 12」(x = 2) と表していようと、《それ》が「14」という数を表しているのだという一点だけが数学的な世界における《事実》であり、それ以外は人が色々な事情で採用している表現方法だとか操作にすぎない。よって、一つの袋が200円のミカンを3袋だけ買ったという物理的・人間的・社会的・経済的な事情では「200 x 3」と表現することが《自然》ではあっても、それは実のところ数学における《事実》を表す一つのやり方でしかないのだ。そして、そういう《事実》を表すために、経済的な事情とか(或る事情の家庭では、太郎君はミカンを買うために、途中でお爺さんの家へ立ち寄ってお金を借りなくてはいけないかもしれない)、社会的な事情とか(太郎君はミカンを買うために電車に乗ったかもしれないが、電車賃を使ったことがわかると叱られるので、それは自分の小遣いを使ったかもしんない)、あるいは物理的な事情とか(太郎君は母親から「1円玉」で1000円分のお金を渡されたかもしれない)は関係がないという前提で思考する。これに対して、小学校の教員の何人かは、「それは数学であって『算数』ではない。われわれは実生活においてリアルな思考を教えているのであって、プラトン的な世界における演算を教えているのではないのだ」と反論しているようだ。しかし、それは表面的な反論にすぎない。なぜなら、算数としても彼らは上記で述べたような色々な事情がありうるという想定を捨象しているからだ。他にも、もし僕が母親からミカンを買ってきてくれと言われたら「どうしてなのか」と質問することだろう。自分が何かやっている途中かもしれないし、いまミカンがないとして何が困るのか。そうした正当な理由もなしに「ミカンを食べたい」というだけで物を買うのは浪費だし、しかもそれだけのことで相手に理由も告げずに他人を動かすのは(軍事作戦の行動で上官が発する命令のように、指示の目的が自明だと共有されている場合を除いては)愚かな指示である。

最後に、他の事例を見てみよう。高校の「数学I」で最初に習う単元として「式の整理」がある。単項式だ項の次数だ多項式の最高次数だといった初等的な言葉を習った後に、多項式の項を降冪順(文字つまり変数の次数として大きいものから順番に)に並べるという操作を習う。「x^2 - 9 + 2x^3」を「2x^3 + x^2 - 9」のように並べ替えるということだった。 このような多項式についても、算数としてのストーリーを仮定することができるだろう。そして、数学の課程でも多項式の項を《順番に並べ替える》という操作が教えられていて、或る特定の並べ方が《正解》だと教えられているのだから、算数でも同じように特定の並べ方が教育的な効果として生徒に《正しい》と考えさせることの何がいけないのか、という反論が出てくるかもしれない。しかし、多項式の項を降冪順に並べ替えるという操作そのものは、その式に関わるストーリーの中にある推移とか順番とか経緯とは、《数学的な》関係にない。(「太郎君は~という式を降冪順に整理して(  )と書き換えました」といった trivial な事例なら関係がありそうに見えるが、この事例でも、回答するための思考や経緯の順番と多項式の項の並び順とは関係がない)。技術的には、多項式を整理するという操作はそこから先の処理、たとえば因数分解するといった目的のために考えやすくすることが目的であり、次数の高い項から並べると《美しい》といった下らない理由でやっている操作ではないのだ。

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