Scribble at 2026-09-01 17:08:35 Last modified: 2026-09-10 14:12:43
先日、若くして亡くなった東野圭吾氏については、熱狂的なファンがいることも何かの番組で知っていたし、「ガリレオ」シリーズはテレビ・ドラマを観たことがあるから、それなりに細いアンテナ線を張っていた作家の一人である。
さきほど出社して、昼休みにジュンク堂へ足を向けたときに、文庫の棚の一角に「東野圭吾氏・追悼コーナー」が設けられていた。そして、数多く並べられている作品群の中でも、分厚くて、「傑作」と帯に書かれているからには、やはり読んでおこうと思って『白夜行』を手に取った。
そして、さきほど帰宅して冒頭の数ページを読み進めてみたのだが、確かにファンがいるのは分かる。敢えて冒頭だけと割り切っておかないと、そのまま仕事もそっちのけで読んでしまいかねない。語用論として見た圧倒的な分かりやすさと、情景や状況の描写に過不足が全くないという二点だけでも、そのまま読み進めるには十分な文章力だ。あぶない。かつて伊坂幸太郎氏の作品では、テンポのよい軽妙な会話で展開される文章力にも引き込まれるような魅力を感じたものだったが、ここ最近はワンパターンの漫才を眺めているような感じがして、彼の作品を全く読まなくなっていた。なので、また新しい魅力の作品に出会える可能性を感じるのは単純に楽しい。
[追記:2026-09-07] 11:07 だ。いましがた読了したところで、それまでは1日に1章ずつ読んでいたのだが、ここ数日はまとめて幾つかの章を読み、そして今日は一気に12章と13章を読んだわけである。もちろんだが、この手の小説の結末や筋書きを語るほど愚かでも無粋でもないから、筋書きや結末を知りたい方は内税1,300円を払うなり図書館や知人から借りて読むなりしてもらいたい。とにかく一定の時間を費やして読むだけの値打ちがあると思える作品だったことは記しておく。ただ・・・小説の舞台と同じ地域に住んでいた僕の同級生にも母子家庭の女の子がいて、学校の帰りに布施で降りてから駅前のファストフードで話すこともあった(ちなみに付き合っていたわけではない)から、何となく切ない印象が残った作品だ。
ともあれ、上にも書いた通り冒頭から読みやすい作品だと感じた。その理由は言葉の使い方なり文体が優れているという点にあるわけだが、他にも大きな理由として、僕が土地勘を持っている大阪市生野区や布施(東大阪市)や天王寺区が出てくるからでもあろう。ただし、地元の人間でなくとも Google Maps で調べれば分かる事だが、作品に出てくる地名や公園などの多くは実在しないか、あるいは異なる場所の地名を使っている(たとえば布施の周辺に「大江」という地名はない。大江とは古代の船着き場という意味なので、もっと西の大阪湾寄りにある地名だ。「大江小学校」も実際には天王寺区にある)。なので、現実の地名を別の場所に使われているという違和感はある。しかし、布施の西あたりに住んでいて治安が悪いとか生活水準が低いなどという描写があると、これは岸政彦君なんかの専門になるのだろうが、確かに「そういう場所」という偏見なり印象を持つ人が多いという事実はあるから、別の意味で「わかりやすい」状況設定だという感想にもなる(もちろん、それが生野区や東成区についての偏見として固定されてよいなどとは思わないが)。
加えて作品の時代設定は、雪穂が中学三年のときに『ロッキー』が封切られたということだから(2章の描写)、僕は雪穂らの6歳くらい下である。ゆえに、僕も体験した現実の出来事が出てくるという点も分かりやすさの理由の一つだろう。とはいえ、当たり前のことだが、『ロッキー』が封切られていた頃に小学生だった僕が当時の社会情勢を詳しく知ったり覚えているわけではないし、ましてや低所得者層の売春(しかも幼女の)が行われていたかどうかなんて知るわけもない。こういうことについても、布施の西側に広がる地区には「今里新地」と呼ばれた遊郭があったという歴史があるので、無用な偏見を上書きするようなことは避けなくてはいけないだろう。
[追記:2026-09-08] 日本で2011年に封切られた映画版(主演:堀北真希、高良健吾)を Amazon Prime で観ているのだが(半分くらい観た)、原作と比べて設定や筋書きにかなり違いがある。まず雪穂が大学を卒業するまでの舞台は、原作が大阪であるのに対して、映画は関東圏のよくわからない土地になっている(暮らしている多くの住人が大阪弁ではなく関東弁だからだ。大阪には沖縄や四国の出身者が集まる区域はあるらしいが、関東弁だけを話しているような地区は大阪にはないし、もちろん布施の西にそういう地域はない)。登場人物が、川を越えた向こう側は貧民街だといった主旨の発言をするので、荒川を越えた足立区や江戸川区という設定かもしれない。また、刑事の笹垣については、息子が白血病で入院している設定が追加されているのだが、これがストーリーに何の効果や関係があるのか、映画を半分まで観た限りではよくわからない。主人公の二人と比べて、親の愛情を受けた子供の方が死んでしまうという対比をしたいのだろうか(実際、映画では最終シーンで笹垣が亮司に向かって養子として引き取りたいと告げている)。他にも、笹垣が桐原弥生子のスナックを訪れるシーンは原作だと終盤に一度だけ出てくるが、映画では前半から何度も出てくるし、小説では色々と動きが語られる探偵の今枝直巳は、映画ではなんと死体のシーンだけしかない。
それから、ウィキペディアで「あらすじ(小説)」と書かれた文章は原作とは異なることを説明しているので、信用しない方がいい。たとえば、「その同級生は何者かにレイプされ、」とあるが、母親の話では未遂であり、これは寧ろ「レイプされた」という噂が広まることに怯えさせて雪穂と同じ精神的な苦痛を与える目的で行われたことだと解釈するべきだから、実際にレイプされたわけではない(これは大学時代に江利子に対して実行された場合でも同じである)。また、「成長した雪穂は富豪の御曹子である篠塚を狙い、篠塚の恋人である江利子をレイプによって排除し、自分が妻の座についた。」などと書かれているが、この記述は四人の登場人物の関係を取り違えており、雪穂は原作では篠塚(一成)とは結婚しておらず、雪穂が高宮誠と結婚したエピソードと組み合わせてごちゃごちゃになった説明だ。どうしてこんなことになるのかというと、実はこれは小説ではなく映画版の筋書きだからである(映画版に高宮も三沢も出てこない)。
[追記:2026-09-10] それから、参考までにテレビ・ドラマとして放映された『白夜行』の最終回だけを観たのだが・・・やはり妙な印象が残った。雪穂と亮司の会話があるというだけでも違和感があるのに、武田鉄矢の下手な関西弁とか、笹垣(亮司に刺される)や亮司(笹垣がもつナイフで自分を刺す)が致命傷を負っているのに何分も動いたり言葉を発していることなど、あまりにも幼稚な演出で呆れてしまう。また、後日談として雪穂の事業が簡単に破綻したり、事情聴取で嘘を重ねている様子にも演出の力が感じられない(電通には悪いが、綾瀬はるかは俳優としては二流だから演出で補強するしかない)。要するに、テレビ的な改作を行って駄作になるという典型的な一例になってしまっている。