Scribble at 2025-09-02 16:17:42 Last modified: 2025-09-02 16:22:17

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渕野 昌『自己隔離期間の線型代数 I』(1月と7月、2023)

これまでに何度か渕野さんの本は紹介しているが、この線型代数のテキストは続刊が期待される。これまで渕野さんが関わってこられた出版物というのは、古典的な著作の翻訳が多かったのだが、ここ最近はデーデキントの翻訳や本書のような本も精力的に書かれていて、書店で眺めるたびに圧倒されてレジに持っていくというのが僕の習いのようになっている。

渕野さんの書き手としての見識には、見習うべきことが多くある。僕も PHILSCI.INFO では科学哲学の教科書を作ると宣言しているものの、なかなか手を付けられずにいるのだが、ぼんやりと目標にしている書物というものはあって、その一つが渕野さんの本だ。他にも、アメリカで出版されている体系書の類が目標になっていて、有名なところではウォーカーの物理学のテキストや、キャンベルの生物学のテキストなどがある。残念ながら、哲学、とりわけ科学哲学で目標にしている教科書はぜんぜんない。というか、だからこそアマチュアでありながら不遜にも教科書を作ろうとしているのだが。

ちなみに、渕野さんの本も多くの数学テキストと同じように、後から導入される概念を先行して使っている箇所があるけれど、彼はそれを線形的な学び方からの逸脱だとか、あるいは紙面でハイパー・テキストを実現するといった風に自覚があっての構成であるため、その欠点も分かったうえで採用されている書き方だ。こういう次第で、序文や凡例は一般的な数学のテキストよりも詳細かつ長大であり、従来の数学テキストに対する間接的な挑戦というべき内容が多々ある。それは、恐らく他の著者に対してだけではなく、出版社の編集者に対しても向けられていると思う。恐らく、渕野さんが影響を受けたとされる MLA の叙述スタイルに沿った、一見すると奇妙な句点や構文の使い方は、なかなか大手の出版社では受け入れられないであろう。

ともかく、線型代数に限らず大学の数学を学ぶ最初の本として強くお勧めできる。ただし、数学を学ぶことに強い動機があって、数学を学ぶことの有意義さを少しでも認めているような人でなければ、通読するのは難しい本である。また、本書は大学院の試験までに通読しておくといった読み方で済ませるようなものではなく、読み方によっては通読どころか一部を読んで自分なりに考えるだけでも数年を費やす可能性だってあるような内容だ。そして、渕野さんはそういう時間や労力の使い方に不平をもつような、僕がつねつね言っている「サラリーマン教授」の類ではないと感じられるがゆえに、教員としても信頼できる人物だと思う。神戸大ではニアミスであったが(僕が中退した後に渕野さんが神戸大に赴任された)、チャンスがあれば講義にでも潜り込めたら良かったのにと思う。

それから、本書には英語やドイツ語といった原語で数学用語を記述している箇所が多い。これは、多くの初学者や一般人にはペダンティックに見えるかもしれないが、序文などを読めば分かるように、これは進んで勉強していったり海外の論文を読んだりする際の「とっかかり」をつけるために有効な措置である。逆に、多くの出版社では原文の表記を「読者に嫌われる」という思い込みで避ける傾向があり、それが「わかりやすさ」や「やさしさ」だという妄想が蔓延してしまっている。

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