Scribble at 2022-03-25 11:36:21 Last modified: 2022-03-26 23:13:57

In Praise of Memorization (pearlleff.com)

Hacker News で話題になっている "In Praise of Memorization" という記事についても色々と興味深い話が読めるけれど、この記事をもとにして議論されている Hacker News のコメントも目を通す価値があるはずだ。

上記の記事は、いかに事実は調べられるからすべてを記憶する必要がないとしても、やはり素養なり教養と呼べる程度の知識は記憶しておくに限るという話だ。これに対して、昨今の教育といえば内容が二の次であり、優先されるべきは形式としての「ロジック」でありクリシンのようなベからず集による揚げ足取りであり、そしてマウンティングの力となる空虚な正論の畳みかけであるという。

僕は当サイトや PHILSCI.INFO でも、昨今の哲学科で大流行しているクリシン教育やリテラシー教育あるいはアクティブ・ラーニングのような手法まで話を広げてもいいが、ともかくビジネス・ライクで目先の勝ち負け(「論破」や「マウンティング」)や利害だけに固執する、権利意識だけは高いが責任感が乏しい、右だろうと左だろうと口先だけの正義を振りかざす未熟な若者を何の躊躇もなくサポートするような高等教育には、反吐が出る思いがする。

そして、どのみち大学教員のそういうサポートは学生からの評価を当てにするとともに、学生からの評価が高ければ三流出版社が記事や本を書かせてくれるため、ゆくゆくはテニュアなり契約更新へと結びつく。もちろん、大学教員が日銭を稼ごうと勝手だし、保身のために何かをやろうとかまわないし(ハイデガーですらそうだと言いうる)、その口で「哲学」とやらを語ってもらっても構わない。哲学だろうと量子力学だろうとヒトの営為であるからには、そういう活字の裏に隠れた事情があるのもわかる。しかし、そういう事情へと何の躊躇も頓着も自覚もなくのめりこむという自己欺瞞を繰り返していくと、やはり有能でも簡単に凡庸な成果しか上げられなくなるのが世の常だし、最初からただの英語秀才でしかない分析哲学の教員などは、教室でゾンビやワインや雷に打たれたオッサンを語る〈裸踊り〉を続けるしかなくなるまい。

それはそうと、アインシュタインの逸話として知られているように、調べられることを覚える必要などないという方針は、確かに僕も記憶するのが苦手なので、それでうまくいくなら都合がいい。でも、実際には何を調べるべきかがわからない限り、それは結局のところ知らないのと同じである。知識を活用するための要点の一つは、どう考えてもネットワークであり関連性である。世界史年表に並べられた全ての事項を記憶する必要がないとしても、ニュートンとヒュームのどちらが古い時代の人物なのかという関係を覚えていなければ、それこそ必要に応じてあらゆる事項を調べなくてはならなくなる。

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