Scribble at 2020-10-24 09:18:21 Last modified: unmodified
そろそろメルマガやメーリング・リストを少しずつ解約したり解除している。ちなみに、よく「購読を解除する」とか書く人もいるが、そもそも "subscription" を「購読」と表記すること自体が誤訳なのであって、無料で読んでいるメルマガは「購読」しているわけではない。
恐らく多くのメルマガやメーリング・リストは20年近くも受信しているのだけれど、その殆どは読んでいないし、中には subscription の手続きをしただけで1通すら読んでいない、つまり資料として受信して貯めておこうと思ってメール・アドレスを登録しただけのメルマガなどもある。しかし、その全ては無意味でしかない。もちろん、そのときしかじかのメルマガに登録したという些末な事実が、その後の僕について何かを知ったり考えるためのヒントになると言いうるが、そんな因果関係が分かったところで、人類の叡智や文明を 1mm でも前進させる力があるのかというと、その答えはほぼ自明であろう。ほんの僅かでも何か効用はなかったものかと考えるセンチメンタリズムもありうるが、しょせんそれは自分自身の力を過信したり、自分が生きている「意味」なる錯覚にすがる欺瞞でしかない。結果として、いまの自分自身にとって必要がないものは切り捨ててよいし、そういうことにコミットする気概(これもこれで一つの傲慢でありうる)がない者に学問を押し進めたりや自分自身が生きるための原則を向上・維持する力はない。
もちろん、「これもこれで一つの傲慢でありうる」と書いたように、なんでもかんでも現時点の自分の判断だけを基準にして過去を切り捨ててよいというものでもない。これを古典の研究に置き換えると、歴史的再構成と合理的再構成の両方が必要であるという事情に該当する。過去に(古典を書いた著名な哲学者でなくとも)自分が書いたものや下した判断を、全て過去のこととして切り捨ててよいわけがないのは、誰でも理解できるだろう。過去の失敗や成功を顧みて反省したり学ばずとも、過去の自分の思考や判断は自然と自分自身の現在や将来の能力に反映されるというのは、認知科学の話としても非科学的であり、一種の精神的なオカルトと言うべき妄想である。しかし、過去の事績にこだわり続けるのも他方で一つの妄想と言うべきものであり、現在や将来の全てが過去によって正しく分かるとは限らず、ましてや決定されるわけでもない。
よって、一方で上記のようにメルマガやメーリング・リストの大半を切り捨ててよいと判断しながらも、僕は Scrapbook のようなブラウザのアドオンで大量のウェブ・ページをアーカイブしている。当サイトで公開する論説を書くために記録したページを読み返すこともあるが、実際には大半のページは10年が経過しても読み返すことがないわけで、上記の方針を uniform に押し当てれば、それらのアーカイブも廃棄するべきであろう。しかし、それが逆に有害だろうと言いうるのは、ウェブ・ページを僕が手作業で保存しているのに比べて、メルマガは僕が配信されてくる個々のメールを受信するたびに取捨選択してアーカイブしているわけではないからである。同じ「アーカイブ」と言っても、ウェブ・ページは殆どが僕の個々の判断で記録しているのに対して、メルマガなんて勝手に送られてくるだけだ。価値があるのかどうかなんて全くわからないし、事実として殆どのメールには価値がない。それに、メルマガやメーリング・リストの多くは僕がやらなくてもアーカイブされているものが多いので、後から幾らでも参照しなおせるし、アーカイブがすぐに消失するとも限らない。(PostgreSQL のアナウンス用に配信されているメーリング・リストなんて、個人がわざわざアーカイブしている必要などなかろう。)