Scribble at 2022-03-14 16:55:36 Last modified: unmodified

人がアイデンティティなるものを言い立てるとき、その多くの事例では自分が他の誰かと比べて何が違っているか(そして、特に何が優れているかとか、逆に自虐的に何が劣っているか)に着目する。しかし、自分が人であるからには、まずもって自分自身が〈人として〉何を他の人々と共有しているかについて着目してもよい。いまちょうどドナルド・ブラウンの『ヒューマン・ユニヴァーサルズ』に目を通し始めたところなのだが、違うことと同じことのどちらにも冷静かつ正確に着目することが的確であり、しかも政治的・文化的に適切と思われる理解や態度を身に着けるためにも必須だと思える。

かつて、僕の先輩は人というものが「どうしようもなく同じだ」とか、あるいは「どうしようもなく違う」という対比について語っていたことがある。どちらに着目するのであれ、恐らく自分と他人あるいは「自分たち」と想定している集団と「彼ら」と想定している集団について、同じであるということに何らかの価値や正統性を求めるあまり違っていることを軽視したり無視するとか、あるいは違うということに何か価値があるとか理由や動機を求めようとして似ていたり同じとすら言いうることを見過ごしがちなところが、誰にでもあるのだろう。それゆえ、出版・マスコミは短絡的な話が大好きだし、彼らの書く短絡的なストーリーや分析を多くの人々は一緒になって喜び、このような状況ではロシア料理の店に嫌がらせするといった人の道に反する愚劣な行いを平気でやってのけるわけである。

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