Scribble at 2024-07-25 16:01:09 Last modified: 2024-07-25 16:01:54
「『論語』読みの『論語』知らず」という慣用句がある(ちなみに、僕は新聞や古典的な著作物でも二重括弧に括って表記することを良しとしている。古典や新聞だけ括弧で括らなくても良いなどという俗習には妥当な理由も一貫性もないわけで、いくら文脈で分かるとは言っても、学術研究者、ましてや哲学者がそんな俗習に従う必要など無い)。一般的な解説では、『論語』を読んで何が書いてあるか理解はできても、『論語』に書かれたことを実行しない人を揶揄するためのものらしいが、僕はこういう解説をいけしゃあしゃあと事程左様に述べているような人々こそ、まさしく『論語』を読むことすらできていないと言いたい。
まず第一に、読んで理解できても実行しない人は「いけない」という判断そのものが、『論語』というよりも陽明学の「知行合一」といった解釈(の、そのまた曲解)を基準にしている。そして第二に、読んだ内容が正しいなら(あるいは正しいと思えるなら)それを実行しないのはおかしいと言われてもおかしくないが、読んでみて正しいと思わないなら実行などしなくてもよいわけである。つまり、「『論語』読みの~」という言い方は、『論語』の内容が正しいと思う人にとっては当てはめてよいが、そう思わない人には当てはまらないのであって、『論語』の無謬性という極めて愚かな前提でしか成立しない話であり、およそ古典を読む態度として普遍的な価値がない。単なるエピゴーネンのスローガンと言うべきであろう。
このような古典を「読む」という場合に求められるのは、それをどう理解したのであれ、その中で正しいと思うことを自ら実行するにはどうすればいいかを考えることであるし、それぞれの章句について正しいとか間違っていると思ったのはなぜかを考えることでもあろう。正しいかどうか、あるいは実行するだけの正しさがあるかどうかは、本を単に読んだくらいで即座に分かるとは限らないのであって、読んで正しいと思ったことを実行していないからといって、それだけで読んでもおらず、そもそも物事の善悪なり正否について興味もないような他人から謗られたり難詰される筋合いのものではなかろう。それこそ、「『論語』読みの『論語』知らず」というフレーズを口にしているおまえはどうなのかという話でしかない。
どのような古典であろうと(教典や経典を除けば)同じだと思うが、著者は盲信や盲従を勧めたり、読んだ直後に何事かを、それこそ夕飯の献立を作るように実行することなど期待してはいない。そんな読書ロボットどもに人の社会を進展させたり自分自身を向上させる力などありはしないからである。