Scribble at 2021-07-01 08:53:54 Last modified: 2021-07-01 09:14:41

食事する前に書こうと思いついたことがあったけれど、結局は食事したりテレビ番組を観ているあいだに忘れてしまった。何かへ書き留めておけばいいのだが、そこまでやるほどの議論、感想、印象、あるいは「意味」はない。

この「意味」を括弧書きしたのは、もちろん僕自身が使っていた言葉なのだが、或る特別な脈絡と意図で使っていたため、他人の発言であるかのように扱った。20歳の頃、とりわけ栗本慎一郎氏の著作を読んでいた頃だったが、よくレポート用紙へ書いていた「意味形成」という、素人っぽい認識論の真似事と言うべき議論の中で特別な脈絡をもっていた言葉だったわけである。その詳細は、実家に残してある書類を読み返さないと思い出せないのだが、そこでも因果関係を重視していた。

・・・と書きながら、実は食事する前に何を書こうとしていたのか思い出そうとしているのだが、なかなか思い出せないな。暇潰しに昔話をしても、そう簡単に思い出すきっかけとはならないらしい。こういうときに、よく言われるのは、「それを考えたときにやっていたことを、もういちど繰り返してみる」という助言や提案だ。食事する前なので、そのときは「ほぼ日手帳」へ起床時刻や今日の予定を書き込んだり、Google Chat で役員の投稿に返信していた。すると、「今日の予定」とか「仕事」というテーマで、思いついたことにかかわる脈絡なり原因が絞り込める場合もあるわけだ。

・・・と、メタ的な話も展開しているわけだが、思い出せない。ここまで来ると、実はあるていどの諦めがつく。これだけ工数を使って引き出せないなら、大して重要でもなかったのだということである。しかも、思い出したい内容よりも、それをここへ投稿しようと思った意欲の方が明解に思い出せるくらいなのだから、たぶんみなさんにとって重要というよりも、僕自身の自意識にとってのみ重要だったのかもしれない。そういうものは、早い話が投稿して公開したところで、読み手にとっての効用は殆どなく、書いて公にしたという自意識にとってしか効用はないわけで、文字通りチラシの裏に書くような話だった可能性が高い。(とでも書いて打ち捨てておくのも、思い出すことを諦める一つの方法だ。ただ、こうしてどんどんメタレベルの段階を引き上げていったところで、実は〈最上位のメタレベル〉とも言うべき視点から言えば虚しいだけだったりもするわけだが。また、なんだかんだ言ってみたところで、後から不意に思い出すこともあったりする。)

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