2022年06月24日に初出の投稿

Last modified: 2022-06-24

ノートの取り方や作り方を学校でしっかり教えてくれるという機会は、実は滅多にない。家庭でも子供のノートを見て指導する親なんて殆どいないだろう。なので、子供というのは昔から考察や議論の積み重ねとかノウハウの継承などが欠落した状況で学習を始めるし、小学校から大学を卒業するまでの16年間にわたって、実際には大して友達と話し合うこともなく、試行錯誤もなしに、全くのロボットや昆虫と変わらない手続きを繰り返していると言ってもよい。そして恐らく、他の国でも状況は大して変わらないだろう。実際、ノートの取り方や作り方についての通俗本や教育学の研究書が外国語の文献や論文でも僅かな数でしか見当たらず、学術研究としてどころか趣味的な話題としても全く考慮されていないことが推察されるからだ。したがって、我々も我々の後輩も子供たちも、常にノートの取り方や作り方についての素人として出発し、素人として終わる。

これは、考えてもみれば世界規模での非効率であり不見識であり浪費である筈だが、世の哲学者、なかんずく教育哲学者の誰一人として、このような(皮肉にも)普遍的問題には関心を払おうとしないのは残念だ。

少なくとも、ここで手始めに話題として言っておけることとして一つだけ挙げるなら、まずノートというものが無いと、それを使わない生徒や学生は、適切に、あるいは効果的に学べないのかどうかという根本的な問いから出発するべきである。授業では、たいていは愚かな学校教員が九官鳥と同じていどの知能で、ノートを買ってきて授業を聞きながらノートを取りましょうなどと言う。でも、僕が知る限り東大や京大や医大へストレートで入っているような同級生の多くは、授業中にせっせとノートを書いたりしていなかった。教師が話していることを〈理解する〉邪魔になるからだ。聞きながら、分からないことを覚えておいたり、気づいたことを覚えておいたり、教師が言っていることが事実だとすると一体どうなるのかを推論したりと、彼らは必要最低限のメモだけを取っていた。書いていたのは授業の内容ではなく、自分で気づいたり考えたり質問するべき事柄であった。逆に、授業中にせっせと色ペンやら定規やらを使って参考書のように詳細で丁寧なノートを言わば工作していたような同級生に限って、偏差値70程度の弱小医大とか関関同立ていどにしか進学していない印象がある。

ノートを取るという作業は、まず明らかなこととして、教師の講義録を記録することでもなければ、教科書や参考書の写経でもない。教科書の字句を書き写す作業そのものが手作業による学習効果をもつなどというのは、長年に渡って無能な学者が大規模で長期間の調査もなく言い続けているだけの錯覚であり思い込みだ。そして、教科書というものは宗教上の修練ではなく、内容が暫定的であることが学者なら分かっている筈なのである。それゆえ、教員も教科書や参考書を学習上の叩き台なり暫定的な教材として扱うべきところを、日本の学校教員は大半が修士号すら持っておらず、学術的な観点が欠落しているせいで、中には教科書に書かれていることが真理であるかのように誤解している人もいたりする。

ノートは、まずもって自分自身が役立てるための記録であり、メモであり、忘備録である。よって、小学校などでよくあるように、生徒の作ったノートを教師に提出させて、教師があれこれと指導するのはいいが自分の未熟な意見を子供に押し付けるような手合いが非常に多いのは困ったことである。そして、そういう未熟なことをやる教員に限って小学校の教員であり、生徒が学ぶ大半の教科を一人で担当していたりするため、影響力は重大である(そして、それに比例する責任も大きいという事実についての自覚があるのかどうかは不明だ)。

ノートは教科書の写経や要約ではないのだから、全ての事項や項目について書かれていなくても構わない。小学校3年生でも四則演算に慣れている子供は、いちいち九九の表なんてノートに書く必要はないのである。それを、結果の平等だけしか頭にない「文科省脳」や「官僚脳」の学校教員は、要綱で求められる内容を全て生徒のノートに反映させることだけが〈成功〉だと思い込み、生徒それぞれの学習にとって何が最善であるかを考えなくなっている。よって、そういう対応ができる有能な人物であるかどうかという大きな疑問が残るにしても、せめてやろうと思えば生徒に丁寧な指導ができるように、学校教員に下らない雑用は求めないよう行政が保護しなくてはならない。生活指導やクラブ活動なんて学校教師が担当する必要はない。学校(教員)が「全人教育」を施すなど、そもそも明治時代の最初から思い上がりも甚だしい。教員の一挙手一投足を子供が真似るなど、落語家や歌舞伎役者の弟子でもあるまいし、公的教育機関が子供に期待したり求めるようなことではない。あるいはクラブ活動を学校でやるなら、地域住民のボランティアを活用すればいい。そして、内申書にそんなものを反映させるのをやめることだ。自発的にスポーツや文化活動やボランティアなどに取り組もうとしない生徒を無理に引きずり回したところで、端的に言えば勉強の邪魔になるだけであろう。最低限の体力づくりなんて体育の授業だけでよいし、大半の生徒は学校まで徒歩や自転車で通っているだろう。

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