Scribble at 2024-08-23 08:05:40 Last modified: 2024-08-25 14:39:58
死について考えると、もちろん多くの方は生命についても何事か考えようとするであろう。日本では「いのち」などと書くと、博報堂のコピーライターがお気に入りの宣伝文句か、あるいは NHK の湿っぽい闘病番組のタイトルに使われそうな印象があるのだけれど、そういうセンチメンタリズムはどうでもいい。ただ、日本だけに限らず、印象だけで言えばアメリカでもさほど生命論というものは盛んに研究も議論もされていないと思える。そして、その理由が仮に「われわれは何をどう議論しようと『生命』をもつ個体なのである」からというなら、僕は何か度し難いものを感じる。それは、もちろん僕は自分自身が第一人称的な観点で言って「生命」をもつ個体であるという意味が正確に言ってどういうことなのか分からないからだ。
僕は、そろそろ真面目に扱ってよいと思うのだが、こういう脈絡で取り上げられる物質主義とか物理主義というのは、昔から評判が悪い。たとえ、理数系の研究者とか、あるいは自分では「理系」だという自意識にしがみついている東大理学部とかを出たお馬鹿さんや坊やたちが、露悪趣味なのか何なのかは知らないが、口先だけの人間機械論のようなものをブログとかでぶち上げようと、しょせん哲学的には(そして、たいていは生化学などの理数系の分野においても)浅薄な理解のもとで適当に喋ってるだけの議論でしかない。その証拠に、彼らの中でそれなりの分量で論証なり実証なりという、人を説得するに値するだけの議論を展開している者は殆どいないわけである。それが、大出版社から出る新書であろうと、あるいは個人のブログ記事であろうと、成果として何も出していないのだから、それはつまり他人を説得できるだけの思考を積み上げていないということでもある。適当に自分で納得できそうな妄想で済ませるという自己欺瞞によって、何か「一家言を手にしている」という自己催眠に陥っているだけであろう。
したがって、いつものように学者は成果こそが全てなのであるから(繰り返すけど、PDF やブログ記事として論説を公開するなんてことくらい、スキルやコストという条件があろうと、いまや中学生でもやろうと思えばできる)、この国では生命に関する議論というものは、実質的に殆どないと言ってもいい。プロパーがこのていどなのであるから、山のように出版されている通俗哲学書と彼らの「業績」との間は、恐らく数歩の隔たりしかあるまい。書店で眺めたりアマゾンで検索しても、恐らく大半の結果は坊主やスピリチュアル系の詐欺師ども、あるいは暇な医者が書いているエッセイの類しか見つかるまい。