2022年09月03日に初出の投稿

Last modified: 2022-09-03

アメリカの哲学について、18世紀から現代に至る歴史をトレースするような本がある。あまり丁寧に眺めてはいないのだが、アマチュアリズムとプロフェッショナリズムの対比に、後から大学制度と世俗主義が加わってゆく様子がうかがえる。そうしてアメリカ独特というか、アカデミズムの方がプラグマティズムへと展開してゆき、寧ろアマチュアの方がクリスチャンなどによって観念論を支持してゆくという、興味深い状況に至る。そしてご承知のとおり、第二次大戦やベトナム戦争などを経てゆくうちに、ランド研究所などとの関係を解消していった経緯によって、特に科学哲学は「ノンポリ哲学」だ「ブルジョア哲学」だと言われるようになってゆく。

ようやく最近の10年ほどで多くの学会がテーマとするようになったのだが、アメリカは〈活ける差別の博覧会場〉であり、差別に関する社会科学の最前線であるばかりか差別の最前線でもあるからして、哲学においても女性、黒人や移民やネイティヴ、貧富といった色々な脈絡でも歴史的な経緯がある。簡単に調べていただくだけでも、アメリカの大学で科学哲学を教える教員に黒人・ヒスパニック・アジア・ネイティヴを出自とする人が少ないということが分かるだろう。また、いわゆるアメリカの南部と呼ばれる地方の大学では、科学哲学の学科や講座が非常に少ない(よって、そういう土地の書店にも科学哲学の本は置かれていない)。それでも女性の割合はかなり増えていると言えるから、これは個人、大学の人事、あるいは学会としても相当な配慮や公平な評価の工夫をしていると思う。

これに比べて、わが東アジアの田舎国家ではどうかというと、科学哲学の学科や講座が少ないのはいいとしても、そこで教える教員に在日朝鮮人や在日中国人がどれほどいるかとか、女性がどれくらいいるかを調べてみれば、かなり深刻であることが分かるだろう。村上さんや太田さんは、どちらかと言えば分析哲学の研究者だから、科学哲学のプロパーとして女性の専任教員(専任講師以上の身分)は全国に5人もいないのではないかと思う(昔は学会の名簿で簡単に確認はできたのだが、最近は所属を敢えて書かない人もいるので、個々の大学を調べるしかない)。

こういうわけであるから、まだ人材の多様性とは言っても数百年はかかるのだろう。東大の科学史科学哲学教室に全盲の教授が赴任するなんて、おそらく3,000年先のことかもしれない(それまでに東大どころか日本という国家が存続していればの話だが)。

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