Scribble at 2024-11-06 07:22:18 Last modified: unmodified

添付画像

11月15日は、子どもの成長を祝う七五三です。神社やお寺を参拝し、かわいらしい晴れ着姿を撮影しようと考えている人も多いでしょう。ただ、過剰な演出・効果や大がかりな機材の持ち込みなどが他の参拝者の迷惑行為になるとして、「撮影禁止」とする神社も増えています。

七五三は「撮影禁止」に…偽装撮影や過剰演出の悪質な迷惑行為が横行

針小棒大な議論をここで展開するつもりはないのだが、この事案は他にも当てはまることがあるので、少し触れておきたい。

まず、この手の撮影を依頼したり実行する人々の振る舞いを「自己満足」だと非難することは容易いが、そもそも家族愛や恋愛というものは自分のためだけにあるものなので、本質的に自己満足なのである。よって、自己満足でしかないことを自己満足だと難じても無効である。更に自己満足が動機の場合は、それに熱中している人はマスターベーションする猿と同じであり、法令だろうと道徳だろうと科学哲学だろうと傾聴されはしない。

そして、こういうことはスマートフォンのプロモーション・サイトで展開されている、カメラ機能でどんなに素晴らしい写真を撮影できるかという演出にも、似たような指摘ができると思う。たいてい、どこかの町中や史跡などでクリアなバックを背景に撮影した写真を紹介しているが、現実にはそんな状況での撮影はできない。なぜ「自撮り棒」が売れているのかと言えば、あれを使って撮影している人の様子を見ると分かるように、背景に人がいない海や空にカメラが向くように角度をつけていて、それはつまり Apple のサイトで掲載されているような「余計なもの」が写り込まない写真を撮影するには、ああしてカメラを空に向けたり海に向けたりするのが最も簡単なのだ。神社でそれをやるなら、当然だが「余計なもの」の筆頭である他人が写り込まないような角度で撮影するのが望ましいからこそ、他人の迷惑など顧みずに地面へ寝そべって仰角で撮影しようとするのだ。

こうしたことは、すべて「被写体がどう映れば満足なのか」ということしか考えていないからこそ起きる視野狭窄なのだが、凡人に社会道徳を貫徹させることは昔も今も、そしておそらく将来も難しい。ただし、場当たり的なべからず集のようなものを各人に叩き込むのではなく、もっと一般的な原則とか生活スタイルや発想のようなものとして習慣化するような工夫はできるだろう。そこで考えておきたいのが、俗に言う「人間性」なるものは、テクノロジーそのものではなくテクノロジーの使い方を他人に強制されたり誘導されることで規定されてしまうということだ。場合によっては、それが教育とか親のしつけなどによって刷り込みとなることだってあろう。スマートフォンのカメラ機能そのものに、人倫に反するような本質があるわけではない。それを、駅の階段で女子高生のスカートの中を撮影するために使うから違法なのだ。よって、メーカーや広告代理店が誘導する「典型的」と称する運用にとらわれないことが大切であって、もちろん結果として違法行為に使う人もいるわけだが、逆に「こういう場合には使わない」という節度もテクノロジーの使い方なのである。僕が、いわゆるラッダイト運動のようなものに共感しないのは、彼らは自ら人の知性を否定しているからだ。テクノロジーを取り除けばテクノロジーによる被害がなくなるという発想は、要するに動物実験での条件設定と同じであって、最初から個性や知性を否定した発想なのだ(社会科学で提唱される理論や仮説の検証に動物実験が使えないのは、これが理由だ)。

  1. もっと新しいノート <<
  2. >> もっと古いノート

冒頭に戻る