Scribble at 2025-03-12 22:19:05 Last modified: 2025-03-12 22:28:51
図書館からブルデューが編集したという『写真論 その社会的効用』を借りてきて、ざっと眺めてみたのだが、いまいち説得力に欠けるというか、焦点がズレているような気がする。
まず、「社会」とか人と人との関わりに写真がどういう効果をもつメディアなりテクノロジーなのかと考えてみるに、それは何を措いても写真を撮影した人と写真を眺める人との関わりから始まる他にないだろう。撮影倶楽部がどうとか、そういういかにも社会学者が話題にしそうな人間関係や集団から話を始められても、そんな議論には殆どリアリティがない。おたくやマニアが集まって、何か特殊なことが起きるらしいとか言われても、それがどうした知ったことかというのが大多数の意見だろう。そういう特殊な状況や特別な集団を、あちらこちらから拾い上げて大部の本を続々と出版されたところで、そんなものを追いかけていられる暇人は社会学者だけである。
大多数の人々は、自分たち平凡な人々の暮らしに起きている不安だとか軋轢だとか懸念や騒動の原因が人の認知機能や心理や人間関係や制度や慣習のどこにあるのかを知りたいと思う。そして、写真が何かを知ったり考えるきっかけになったり、何事かを示す決定的な証拠になったりするなら、それはどういう状況においてなのかとか、どうして我々は写真にそういう説得力を感じるのかとか、あるいは昨今であれば、X でバラ撒かれる「決定的な写真」と称するディープ・フェイクの画像を一方では不愉快に思っていながら、他方ではセーラームーンや坂道アイドルの本番シーンを生成 AI で出力した画像を集めまくるような人々がいるのはどうしてかとか、そういうことを考えたり知りたいと思うはずだ。
つまり、冒頭では「社会学の社会学」をやるだけでは十分ではないと言いながらも、結局のところそれを真面目にやったことがないからこそ、多くの社会学者は社会について語るという姿勢そのものが歪んでいるのではないかと思える。少なくとも、かつては法社会学者を志してパーソンズや新明やルーマンやガーフィンケルを読んだこともある一人としては、そう思えてしまう。以前から何度か書いているように、僕が科学哲学を専攻したのは、とりわけ科学や科学哲学について通俗的なことを書いている連中の胡散臭さがどこにあるのかを知り、要するにクズのような科学哲学を叩き壊すためである。日本だけに限ったことでもないが、科学哲学や科学論と称する論文や本の大多数は、僕に言わせればほとんど哲学なんてやっておらず、既製品の教科書や論文に掲載されるトピックや論点を拾い上げてケース・スタディやシミュレーションをやっているだけのことである。つまりは、「科学哲学の社会学」という観点が欠落しているか、あるいは軽視しているような人々が多すぎるわけである。その理由は、やはり社会学をやることでも分かるだろうと思うが、哲学者の大半が大学という高等教育機関のサラリーマンだからであり、都内の高慢な左翼出版社から本を出してもらうしか自己承認欲求を満たせない人々だからではないのか。