Scribble at 2023-08-17 12:32:56 Last modified: 2023-08-19 10:40:59

九鬼周造の随筆集を眺めていて、やはり学者というのは自分の専門とするところにおいて業績を積み上げることだけに専心し、こういう、いまで言えばブログ記事みたいなものを売文業者のように手掛ける愚行は(自らを少なくとも哲学にかかわる者と任じていれば、なおさら)避けるべきであろう。よって、僕が PHILSCI.INFO の落書きで何を書いていようと哲学者として何の価値もないという話にもなり、自戒の材料としても一読するだけの価値はあったと思う。

そんなわけで、九鬼周造が綴っている他の学者との逸話とかは、彼を研究する人々の参考になるのだろうが、それ以外ははっきり言ってクズみたいな文章だ。もう古本屋に売ってしまおう。外来語を排斥して日本語を守れとか、なるほどそういう役回りの拡声器が出版業界に幾つか設置されている社会的な効用はあるのかもしれない。そういう人や思想があったうえで人や社会がどう展開するかが興味深い話でもあるからだ。

しかし、それを僕自身が支持するかと言えば、まったくもって願い下げである。僕自身は、できれば外来語は無理に使いたくないし、それに自慢でもなんでもないが書こうと思えば英語で書ける者なので、日本語話者であるからこそ語感として外来語の奇妙さに困惑させられることも多い。何度か書いている事例だが、あの新聞記事に表記される「ユーチューブ」とか「フェイスブック」という表現から受ける、ソーセージをわざと叩き潰して食べるような外来語のどうしようもない下劣さは、ぜひとも避けなくてはならないだろう。

しかし、だからといって外来語を積極的に排斥すればいいかと言えば、われわれは既に明治から昭和にかけて考案された専門用語の語句がもつ偏見や未熟な理解に大きな悪影響を受けていると言われており、九鬼周造が推奨するほど学術用語なんてものは正確かつ厳密に元の意味を描写などしてはいないし、そもそも元の意味というものすらデタラメなものであることも多いのだ。よって、元の意味が厳密であるからこそ、それを正確に日本語へ写し取ることが大切であり外来語は避けるべきだ、という発想こそが外国文化を礼賛していることにほかならないとも言えるのである。

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