Scribble at 2023-08-17 10:28:15 Last modified: 2023-08-17 10:46:45

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日常に漂う性と業の果て、破綻へと至る際で、小説は神話を変奏する。生と死、自我と時空、あらゆる境を飛び越えて、古井文学がたどり着いた、ひとつの極点。濃密にして甘美な十二の連作短篇。巻末に、大江健三郎との対談「詩を読む、時を眺める」を収録した。

古井由吉『辻』(新潮文庫、2014)

朝っぱらから読むのも変な話だが、寝床で古井由吉氏の『辻』という作品を開いた。冒頭の1話を読んだだけなのだが、もう先に進める意欲がない。なんでこんなものが「日本文学の極地」とか「現代文学の到達点」などと言われているのか、まったく理解不能だ。稚拙なフレーズの応酬があり、貧弱な事物の描写があり、そして NHK の安物ドキュメンタリーみたいな心象表現が繰り返され、そしてそもそも日本語の文章として強い違和感を覚える使い方の読点も多々ある。確かに、この本の付録で作者が対談の相手にしている大江健三郎氏も、高校時代に左翼の友人に勧められて一読した覚えはあるが、この人物も異様なボールド体の活字を使った文章とか、日本語の作品として相当に違和感を覚えた。

そして、この二人の文章を読んで、或る言葉が思い返された。それは、小学生が国語の授業で覚えてきたばかりの「異化」という表面的で下らない文章テクニックのことだ。ああしたものは、作品の一箇所だけで使うからこそ効果的なのであって、ヘンテコな表現ばかりで埋め尽くされても効果はない。それこそ、典型的な NASCAR effect だ。ということで、まだ読み続けるかどうかは思案しているところなのだが、おかしな意味で衝撃を受けた作品である。これが日本文学の「頂点」なのか…でも、そういう言語感覚とか感受性の人が多くいるという参考にはなる。

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