Scribble at 2024-05-20 17:44:55 Last modified: 2024-05-20 21:48:31
古典とか名作などと呼ばれている文学作品だとか、映画、戯曲、アニメ、漫画など、なるべく色々なものを読んだり観ようとは思うのだけれど、なかなか時間もなければ余裕もない。そんなことに時間を使っているくらいなら勉強したほうがいいと思えることが多いからだ。もちろん、それだけでは何か「貧しい」という平凡な後ろめたさのようなものはある。
でも、「こんな作品を読んだこともないのか」などと蔑まれることに不安を感じているわけではない。こう言うと身も蓋もないし嫌味でしかないのは分かっているが、僕は、そんなことを言う大多数の相手よりも遥かに高い学歴があるからだ。当たり前だが、古典的な作品を読んでいることよりも国公立大学の博士課程に在籍していたことの方が「偉い」とか「知的水準が高い」とか言いたいわけではなく、こういう嫌味なことを言うのは、まさしく物事の基準が一つに決まっているわけではない(と、言いたくなるだろ?)という事実を再確認するためなのだ。そういう作品を読んでいることにも何らかの意味があるかもしれない。それは分かるが、それを他人と自分との比較に持ち込むのは、やはり愚かな人間のやることであり、それは本来なら過去の自分と比べて読んだ自分がどう変わったか(必ずしも「良く」なったり「成長」するとは限らないわけだが)という比較をしなくてはいけない。
それにしても、古典と呼ばれている作品だとか、あるいは有名な作家が書いたものを読んでみても、どうしても素晴らしい作品だとは思えないということがよくある。たとえば、マーク・トゥエインがそうだ。彼の作品は、エッセイも含めて幾つか読んでいるのだけれど、一つとして感心したり、また読みたいと思うような作品がない。なんでこんなつまらない小説やエッセイを書く人物がアメリカ文学の最高峰などと言われているのか、ぜんぜん分からない。黒人の描き方にしても、その文章表現を客観的に社会学や文芸批評の対象として扱うなら意味があるかもしれないけれど、そこで書かれている内容とかストーリーそのものは別に面白くもなんともない。確かアニメにもなっているはずだし、子供の頃に観たのかもしれないが、ぜんぜん僕の記憶に印象として残っていない。ひょっとして、英語で読んでいないからなのかと思って、The Portable Mark Twain (Penguin Classics) を買ってみたのだけれど、やたらと長い文章で困惑させられるだけだ。