Scribble at 2026-07-19 10:53:07 Last modified: 2026-07-19 11:21:58

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あくまでも僕が読んできた数百冊の参考書や一般向けの本に限っての話だが(もちろん、このオーダーに匹敵する人がそうそういるとは思えないが)、理数系の書籍で出版社や理数系のプロパーたち自身が「名著」だとか「分かりやすい」などと宣伝したり評価している本は、僕に言わせれば大半が看板倒れや張り子の虎、あるいは書き手としては三流と言ってもいい人々の自己欺瞞が生み出したゴミの類だと言ってよい。ここまで徹底して侮蔑する理由は、既に当サイトの「組み合わせ論の基礎」という論説や、あるいは落書きとしても何度か公開しているとおりだが、やはりこのようなことこそ世に問うべきこととして繰り返しておく効用もあろうと思うから、再び話題として取り上げておきたい。

理数系のプロパーとして数々の通俗本を出している加藤文元氏、養老孟司氏、福岡伸一氏、藤原正彦氏など、昔から多くの人々が知られているけれど、自らの専門分野と関係がないことを、ブログや年賀状にでも書いておけばいいものを調子に乗って書物として販売してまで論じているような藤原氏や養老氏のような人々は除外しておこう。問題があるのは、プロパーとして自らの専門分野周辺の理論や学説や概念などを解説して、出版社の宣伝文句はおろか取り巻きの読者などからも「分かりやすい」と評されている人々の著作物だ。僕の経験では、そういう本が(僕の基準で)分かりやすかったことなど一度もない。たとえば数学の参考書を例とすれば、加藤氏はチャート式の参考書まで手掛けているが、既存の参考書と比べて分かりやすさという点では殆ど変わらない。僕には、旧赤チャートの砂田利一氏の記述は明快かつ正確であり、寧ろ白チャートより分かりやすいという印象すら受けたほどだった。

これは英語の勉強について書いている論説でも似たような話をしたのだが、出版社の宣伝文句が最初から無視してもよいのは当然だとしても、読者の評価が偏っていることを正確に指摘する人が少ないために、早い話が生存バイアスをもたらすような評価ばかりが残ってしまうのだ。英語の参考書について「名著」だの何のと言われている書籍が山のように続々と出版されているが、そんなに名著だらけなのに、どうして日本人の大半は英語が満足に使えないのか。これは、そういう本を「名著」だと大声で評価している人々の多くが英語の得意な人々であり、実際に外資系企業や貿易商や商社などで働いたり外務省に勤めたり、あるいは英語の大学教員や英会話スクールの講師や翻訳家などとして働いている「結果として生存できた人々」にすぎないからだ。しかし、それらを読んでも成績が上がらず大学にすら入れなかったり、あるいは冒頭の数ページを読んだだけで投げ出してしまった人々の経験談は、一般的に「恥」とされるので、どれほど膨大な数のケースがあろうと公表されにくいから、誰も推測や証明ができず、生存バイアスに陥っていると思われる人々の誤った自信を強化しやすい。

これと同じく、理数系のテキストを高く評価する人々というのは、実際には殆どがそれらの本を読まなくてもよかったような人々なのであって、その本を参考書として使ったからこそ東大の理Iに合格できたなどという証拠はない(だいたい、いまや偏差値の高い大学へ進学する生徒の過半数は金持ちの子供なので、参考書なんて何冊も買いそろえているし、予備校だって通うはずだ。一冊の参考書が受験の成否を決定したなどということはありえない)。また、これは学習心理学としては常識の類になるが、理数系の学科を得意としている子供は理数系の内容を述べている本を簡単に理解するので、はっきり言えば誰が書いた参考書であろうと、そういう子供にとっては「分かりやすい」のだ。つまり、理数系の人間が理数系の教科書を「分かりやすい」と言っているのは、学習心理学として解釈すれば、それは殆ど「読める」と言っているに等しいのであって、叙述が構成や表現として適切であるかどうか、ましてや理数系の学科を得意としていない人にとっても適切であるかどうかは、全く分からないのである。

しかし、ここまで書いてくると、何人かは「じゃあ、いわゆる『文系』の人が評価しているならいいんじゃないか」と思うかもしれないが、哲学者であるわれわれに言わせれば(しかも、世間では「文系」だと思われている哲学の中でも、わざわざ「科学哲学」と呼ばれている分野を専門にしている僕に言わせれば)、そのようなことはないのである。そもそも、そのような文系とか理系といった区別は、たかだか近代以降の学校制度によるご都合主義の区分で学問や知識を区別しているだけのことであって、物事の理解や説明の仕方として必然的な区別である根拠は何もないし、合理的である保証もないのである。

書店に足を運んで理数系の棚を見れば、「文系でも分かる」とか「文系の編集者が分かるまで推敲した」といったキャッチ・フレーズで発売されている、相対論や量子論の通俗書がたくさんあることを知るだろう。だが、それらは僕に言わせれば更に「悪質」と言ってもいいような自己欺瞞によって編集され出版されたゴミだと言っていい。量子力学を理解しておきたいという意欲や願望や目的を持っている方は(単に数学は勉強してないが知りたいという自意識や見栄のような動機であろうと、ひとまず学ぶつもりがあれば構わない)、そういう本をあれこれと買い漁るのは止めるべきである。

これも、英語の勉強について述べた論説で議論したことだが(なぜなら勉強についての一般論だから、ここでも当てはまるのだ)、何かを理解することに困難があるというとき、その分かりにくさというものには程度や種類があるからなのだ。その逆に、もちろん分かりやすさにも程度や種類があって、既に述べたようにプロパーや理数系が得意な人たちにとっての「分かりやすさ」というのは、苦手な人にとっての「分かりやすさ」とは違っている可能性が高いのである。つまり、「文系の編集者」などという自意識やでっち上げの肩書だけで、理数系の概念や学説や議論を理解したり学ぶことが苦手であるような人々の認知能力や「分かりやすさ」を自分が代表しているとか、あるいは自分が典型だと思い込むのは、はっきり言えば度し難いほどの傲慢という他にない。よって、そのような自称「文系の編集者」というのは、量子力学が分からないという以前に、人文系の素養として学習心理学の基礎すら理解していない、つまりは書籍が担う知識や情報についての見識だとか自分自身についての正確な理解が欠落しているのだ。そのような人間が、知り合いの理数系のプロパーと何十時間に渡ってお喋りした成果を書籍として出版しようと、そんなものは理数系の入門書であるどころか、友達との雑談を商品にしたようなものでしかない。だから、僕は哲学者として自信をもってゴミだ紙くずだと言っているのだ。

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