Scribble at 2023-05-12 09:41:52 Last modified: unmodified

いまでも原則としては正しい考え方だとは思うけれど、そこから展開された応用が現実離れしていて多くのデザイナーから否定されたがゆえに、原則まで軽視する連中が出てきたのは残念だ。ウェブ・コンテンツに限らず、およそ「コンテンツ」と呼ばれるものには、論理的な構造とプレゼンテーションとを分離して考えるべき利点がある。繰り返すが、この「コンテンツ」はウェブのコンテンツに限るものではない。それこそ、演劇や映画の台本には脚本構成(論理的な構造)とセリフ回し(プレゼンテーション)とを区別して考えられる。従来の書籍でも文章構造の編集とフォントやレイアウトや装丁とでは別の考え方や技法が必要だ。したがって、ウェブ・ページの論理的な構造である HTML と、プレゼンテーションである CSS との分離は、何もハイパーテキストによって新しく考案された区別ではない。ひらたく言って、「見てくれと中身は別だ」と誰でも同意するようなことを言っているにすぎないのである。

このような議論は、コンテンツの論理的な構造である HTML 要素についてのシンタクス(統辞論、構文論)とセマンティクス(意味論)の区別や、コンテンツのプレゼンテーションである CSS プロパティについてのシンタクスとセマンティクスについても言える。いっとき、XML の普及によって自由に DTD(もういまどきのコーダやデザイナーで「DTD」なんてものを覚えていたり理解している人は多くないだろう)というシンタクスのフォーマットを作って利用できるという大宣伝が展開されたものだったが、それを HTML に応用した XHTML ともども、せいぜい10年もしないうちに大半のプログラマやデザイナーは一考だにしなくなった。IE の対応が進まなかったという業界事情もあるにはあったが、従来の HTML を採用せずに独自の DTD を宣言して特別な論理的構造をコンテンツに構築したり維持するメリットが、実際には殆どなかったからだ。そして、XML にプレゼンテーションを適用するフォーマットだった XSLT についても、いたずらに複雑な構造を持ち込むだけで、それらを多用した IT ゼネコンの Java 使いだけがクルクルパーしかいない総務省の案件で莫大な予算を獲得できるというていどの成果しか上げられなかったというのが実情だろう。僕も XSLT の本は(もちろん洋書しかなかったのだが)一読したし、O'Reilly から出ている(翻訳はない)デスクトップ・リファレンスまで所持しているが、これを仕事で使うことは一度もなかった。電通や博報堂の案件ですら、そういう状況であったから、多くの企業やネット・ベンチャーでも XSLT を使ってプレゼンテーションを定義するデザイナーなんて皆無だったろうと思う。

しかし、だからといってシンタクスとセマンティクスの区別がどうでもいいというわけではない。応用した連中がいかにバカで無能であろうと、彼らにアイデアをもたらした区別そのものは、いまでもというより WWW が考案されたり実用化される前からずっと妥当である。

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