Scribble at 2024-11-29 13:03:52 Last modified: 2024-11-29 18:13:14

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大阪圖 : 明治五年 | 内容年代 1872 | 図書館資料ID 001828052

上に掲載したのは、大阪市北区の地図である。アンカー・テキストのとおり明治5年のものであり、大阪に鉄道が開通してまもなくといった時点の地図だ。いま、青木栄一氏の『鉄道忌避伝説の謎』(吉川弘文館、2006)を読んでいて、大阪駅(当時は「梅田停車場」)が当時の中心街である天満や南森町あたりよりも離れた場所(上の地図では左上)に作られていることが分かる。これはなにも当時の住人が鉄道の敷設に反対したからではなく、単に街の中に鉄道を通すと土地の買収や建設費が余計にかかるし、地形の問題として天満あたりに鉄道を通すメリットもないからだ。

大阪駅のあたりは低湿地帯で、もともとは「埋田」と呼ばれたのが「梅田」になったという経緯がある。

このような事例を見ても、地域あるいは地方を対象にしている、いまでこそ「地域史」なり「地方史」、あるいは具体的に「東北史」や「沖縄史」などと呼ばれる研究が成果を積み上げてきているが、これらはほぼ戦後になってから生み出されたと言ってよい。それまでは、地理にしても歴史にしても、あるいは習俗の社会学的な研究にしても、各地の地元の人々がプライベートな興味で調べたり文章として残してきたわけであった。僕ら学術研究の手ほどきを大学院で受けた者の多くが、いわゆる「民俗学」と呼ばれる分野をそうした散発的な興味の寄せ集めと言うべき成果の延長としてとらえることが多く、したがって厳密な方法論や理論を欠いた、地方の暇な金持ちや老人がやる博物学的な調べ物の延長として、こう言っては悪いが教育学などと同じく「萌芽的な段階にある学問」(悪く言えば三流の学問)と見做しているのには、こうした理由がある。しかしながら、僕が思うには民俗学は既に既存の歴史学や地理学や文化人類学や社会学にしかるべき場所を見出して、恐らくは妥当な解体が進行していると思う。なんらかの自己イメージを抱いている方々には申し訳ないが、おそらく50年も経たずに民俗学という分野は消えるであろう。それに、とりわけ日本にしか民俗学という分野はないし、それゆえに軽薄なナショナリズムやインチキ右翼のネタ元としてしか価値がないなんていう研究も無数にあって、実は僕らのような保守思想の人間にとっては迷惑なでっち上げの伝統を語っていることが多い。

それから、上の本を読んでいて感じるのは、やはり凡人というのは今も昔も安易に他人の書いたことを盲信し、検証もせず、いや検証が必要だという社会科学の初歩的な素養もないデタラメな人々が地方史や自治体の都道府県・市町村史を手掛けていて、昨今の WELQ バイトと同じようなコタツ記事やコピペの記事を公的な出版物にいけしゃあしゃあと書いていたということである。したがって、僕らは古い書籍や記録だからといって古臭いと馬鹿にしてはいけないし、新しい書籍や記録だからといって何でも先進的で優れていて事実に近づいていると考えてはいけないのだが、かといって古い書籍や記録を無闇にありがたがったり、あるいは新しい書籍や記録だからといって軽薄かつマーケティングだけで書かれた愚劣な紙屑だと決めつけてもいけない。要するに、馬鹿や凡人はいつの時代でも大半を占めており、時代や新旧の違いにかかわらず、信頼できることとできないことの区別がきちんとできるように、自ら厳格な基準を学ぶなり考えなくてはならないわけである。

いま読了したところなので、ついでに書いておくと、著者は鉄道敷設について地元で起きた反対運動が全て虚構だと言っているわけではなく、宿場町などの業者が反対したといった、特定の事情で反対運動が起きたとされている記述が多くの地方自治体の公的な地誌にあるが、その証拠がないという理由で、鉄道の駅が街から外れた場所にある事情としての反対運動を疑っているわけである。したがって、もちろん妥当な理由での反対運動はあり、そしてその記録もあることは確かだが、多くの地域で単なる言い伝えのようなものとしてしか理由がなく記述されている反対運動は、恐らく後から地元の郷土史家などが牽強付会で捏造した妄想であろうとする。困ったことにそういう妄想が地方公共団体の公的な地方誌として出版されてしまい、各地方の学校で副読本になったりして、いわゆるエコーチェインバーが起きている。そして、本書の後半で著者がなかば嘆息しているように、そのエコーチェインバーを強化しているのが、地元の歴史学者や学校教員なのである。

当サイトの落書きを読んでいれば何度か僕の指摘を読んだと思うが、学校教員というものは、簡単に言えば学者でもなんでもないし、そもそも大学で免許をとるために履修が必須となっている教職課程の学科は学術研究の基礎になる高度な学問ではなく、「学級経営」のような実務とか、初歩的な「児童心理」とか、あるいは気休め程度にしか解説されていない部落差別や障害者福祉などである。数学の高校教員だからといって、数学科の学部レベルの学生が学ぶような知識をもっているわけではないし、日本史の高校教員などは小学校時代の僕にすら及ばないていどの知識しかなくて原始・古代を教えている。参考書や専門書に名を連ねる高校教員がいるのは事実だが、そういう人たちは灘高校や開成高校といった一部のエリート高校の教員であり、教員でありながら専用の研究室を充てがわれているような人々だけである。

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