Scribble at 2021-11-01 17:27:49 Last modified: unmodified

大昔、修士課程の学生だった頃に complement を実体化していいのかどうかという議論をしたことはある。negative universals と言い換えてもいい。直感的には、「こんなことが言えるなら、何でも実体化できる」と反論したくなるのも分かる。こういう一見すると〈病的〉な対象を毛嫌いして否定する動機は分からなくもないが、しかし第一に、プラグマティックに言えば大半の complement は役に立たないから、あろうとなかろうと現実にはどうでもいいのだ。そして第二に、集合 A の補集合を実体化したからといって、それらの和集合である「宇宙」の外延を常に特定したり規定したり想像できるとは限らない。よって、集合 A の定義や定式化が未熟で不十分であれば、その補集合もクズなのであるから、両者の和集合が最初に意図したであろう「宇宙」と同一である保証など実はないのだ。僕らのような経験主義や有限主義あるいは可謬主義の立場においては、常に我々のやることは不完全で不十分だから、どういう概念であろうと、あるいは数学的な真理とされる事柄であろうと、人が想像することは何であれ修正可能という前提で向き合うため、A と A の補集合で「宇宙」だという教科書的な前提そのものを疑うのがスタンダードな取り組み方である。

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